法話

平成平成28年28年

1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月

平成28年12月

あくいん十四じゅうしあり。いち驕慢きょうまん懈怠けたいさん計我けいが浅識せんしき著欲じゃくよくろく不解ふげしち不信ふしんはち顰蹙ひんしゅく疑惑ぎわくじゅう誹謗ひぼう十一じゅういち軽善きょうぜん十二じゅうに憎善ぞうぜん十三じゅうさん嫉善しつぜん十四じゅうし恨善こんぜんなり。十四誹謗じゅうしひぼう在家出家ざいけしゅっけわたるべし。可恐可恐おそるべしおそるべし

『松野殿御返事』
建治2年(1276) 聖祖55歳作 全:p1090 定:2巻p1265

悪の因

驕慢きょうまんとはオゴリタカブルこと、懈怠けたいとはナマケルこと、計我けいがとは自分のためにすること、浅識せんしきとはナマカジリのこと、著欲じゃくよくとは欲張りのこと、不解ふげとはワカラズヤのこと、不信とは誠意がないこと、顰蹙ひんしゅくとは毛嫌いすること、疑惑とは疑り深いこと、誹謗ひぼうとは悪口をいうこと、軽善きょうぜんとは善行を軽く見ること、憎善ぞうぜんとは他人の善行を憎むこと、嫉善しつぜんとは他人の善行にヤキモチをやくこと、恨善こんぜんとは忠言ちゅうげんに逆らうことです。いずれも人間のもつ悪徳です。

何故、人間にこうした不徳な料簡が起こるのでしょうか。それは正しい道を真面目に受け取ろうともせず、未熟な気持ちで生きようとするからです。要するに、精神が成長せず、肉体の成長とバランスが取れない状態を反省する心の素直さがないのです。

不徳な者の眼で見ると、間違ったことが正しいことのように見えます。ゴロツキや泥棒や詐欺をはたらく者は、いずれも十四の悪を身に付けてしまっている者ですが、そういう札付きでなくとも、世間で良民として通っているような人の中にも、十四の悪から離れられない人がいます。

人は醜いものと美しいものを見分ける心の働きを、生まれながらに持っているものですが、自分の眼は自分の顔を見ることができないように、自分の心や行いろ反省することが難しいのです。他人の行為に関しては検事になり、自分の行為に関しては弁護士になるのが凡人の常です。これではいつまでたっても精神は成熟しません。

自分の顔を見るには鏡を用いれば良いのです。行いの美醜を悟るのは、法華経という明鏡を用いるに限ります。日蓮大聖人さまによって咀嚼せられた法華経は、私たちを凡身のままに即身成仏させてくださるからです。

手続きは至極簡単です。南無妙法蓮華経と熱心に唱えて、現世安穏後生善処を祈るだけです。若し信に徹することができれば、必ず悟りが得られます。

平成28年11月

領家りょうけはいつわりをろかにて、或時あるときしん或時あるときはやぶる。不定ふじょうなりしが日蓮にちれん御勘気ごかんきこうむりしとき、すでに法華経ほけきょうをすてたまいき。日蓮先にちれんさきよりけさん(見参)のついでごとに難信難解なんしんなんげもうせしはこれなり。日蓮にちれん重恩じゅうおんひとなればたすけたてまつらんために、御本尊ごほんぞんをわたしたてまつるならば、十羅刹じゅうらせつさだめて偏頗へんぱ法師ほっしとをぼしめされなん。また経文きょうもんのごとく不信ふしんひとにわたしまいらせずば、日蓮偏頗にちれんへんぱはなけれども尼御前あまごぜん我身わがみのとがをば、しらせたまはずしてうらみさせたまはんずらん。

『新尼御前御返事』
文永12年(1275) 聖祖54歳作 全:p1251 定:1巻p868

難信難解なんしんなんげ

領家というのは、天皇から直接に領地(荘園)を賜った家柄をいいます。聖文においては、この消息を頂戴した領家の新尼の、姑に当たる大尼を指しています。夫の没後、出家したり、それを模した姿になったりするのが、未亡人(あまり良い言葉ではありませんが)のしきたりであった時代がありました。そこで、実際には出家していなくとも、尼という言葉が敬称として用いられたのです。

大尼の方は、日和見の信心をして、本気の法華経信仰者ではありませんでした。日蓮大聖人さまが佐渡に配流されている時には、世渡りのために信仰を捨てていたのです。ところが大聖人さまが御赦免になり、佐渡からお戻りになると、自分も本当はずっと信仰していました、といいだします。その精神にはまことがありません。大聖人さまが「いつわりをろか」と仰ったのは、その意味です。

新尼の方は、固く法華経を信じ、周囲からの迫害をうけても、命懸けで信仰を護ってきました。遠く佐渡に流された大聖人さまの身を思い、万難を排して種々の布施の品をお送りしていました。

晴れてお題目の信仰が幕府に認可されると、大尼もまたお題目を唱えるようになり、大尼と新尼がともども大曼陀羅ご本尊の授与を大聖人さまに請いました。その時、ご本尊とともに新尼に与えられたのが、上のご消息です。大聖人さまは、大尼にはご本尊を授与されませんでした。

聖徒団の中にも、領家の大尼のような方がいるのではないでしょうか。現代は信教の自由が保障されている時代ではありますが、世渡りや人付きあいのために、真実の信仰を貫けないことがあります。「難信難解」法華経お題目は信じ難く解しがたいと言うのはこのことなのだ、と大聖人さまは仰っています。真実の信仰を貫いてこそ、功徳もあり、利益もあります。目先の欲に目が眩み、「いつわりをろか」にならないようお心掛けください。

平成28年10月

くにほうりてさかへ、ほうひとりてたっとし。くにほろひとめつしなばほとけをもだれあがむべき、ほうをもだれしんきや。国家こっかいのりてすべから佛法ぶっぽうつべし。

『立正安国論』
文応元年(1260) 聖祖39歳作 全:p15〜16 定:1巻p220

国を浄土とし、人に神の働きをさせるのが、真の法です。だからこそ、その法はありがたいのです。いくらお題目を唱えても、国家社会は少しも改善されず、人間も少しも立派にならないようでは、意味をなしません。

現世利益を唱え、お題目を売り物にしている教団がたくさんあります。現世利益が悪いのではありません。現世に利益がないのであれば、私たち人間にとって必要のないものです。しかし、多くの信者を集めている教団の現世利益の中には、国家や社会との連絡がなかったり、あってもその関係がゆがんでいたりすることがままあります。ただ病気が治れば良かったり、ただお金儲けができれば良かったり、ただ選挙に勝てば良かったりするのです。法華経の法は、この世を浄土にし、人間を神にする法です。人間は、喜びに満ちた人生を築きあげなければ、生まれてきた甲斐がありません。ただ体が丈夫であったり、お金持ちであったりするだけでは、人生の本当の喜びは得られません。

人生の本当の喜びに満ちている所が浄土であり、その浄土を造る力を現すのが神としての人間です。この肝心要の目的を離れて、病を癒やしてもらうことや、金儲けをさせて貰うことだけを目的として、神佛を利用しようとする料簡を迷いというのです。その迷いの夢を醒まし、人間本来の面目を発揮させるために、法華経の法があります。

それなのに、相手が迷って何かにすがろうとしているのをよいことに、それを食い物にするのが、怪しい教団の共通の遣り口です。先祖信仰を利用する戒名の付け替え、運命信仰を利用する姓名判断、民間の迷信を利用する六曜や方位の占いなどで人びとを釣り込み、巧みに金銭を集める宗教企業株式会社ができあがっているわけです。上聖文の「法は人に因りて貴し」の意味を考えてみれば、これらの宗教業者によって法華経・お題目の真価が傷つけられていることは明らかです。

しかし、高遠な理想ばかり説いていても、人生にもがいている人の助けにはなりません。理屈の宗教ではダメなのです。病気も癒やし、経済的なご利益もあり、この世の願いの満足を得た上で、貧愛の奴隷とならずに即身成仏の目的を成就するものこそ、日蓮大聖人さまが『立正安国論』で教示された真の法であり、聖徒団の信仰です。現実ばかりでも、観念ばかりでも立ち行きません。観念と現実の一致の上に成り立つのが、真実の法なのです。

平成28年9月

諸木しょもくるるといえども、松柏しょうはくしぼまず。衆草しゅそうさちるといえどきく(菊)ちくへんせず。法華経ほけきょうまたまたかくごとし。

『守護国家論』
正元元年(1259) 聖祖38歳作 全:p572 定:1巻p102

無常むじょうじょう

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」 『平家物語』の冒頭の名高い一節です。こうした「無常観」こそが仏教の真髄であると、長年信じられて来たのですが、果たしてそうでしょうか。

「諸行無常」は、確かに三法印、四法印の一であり、仏教の基本的な教理です。しかし、それは、万物は変化する、ということであるのに、右のような「必衰」、下降の方に力点を置きすぎたものに解されて来ました。「無常」というより「無常」と呼ぶべきものであったかもしれません。

そして、正しい「無常観」は、仏教の基礎となるものですけれども、大乗仏教の教えは、そこにとどまってはいなかったのです。

常楽我浄の四徳波羅蜜、すなわち、不滅の生命、安楽な生活、自主・自由、世界平和こそ、理想であり、真理であり、人類が希求するものであることを、大乗仏教は明らかにし、無常を超えた常住、無我を越えた大我を説き明かしました。

この四徳波羅蜜の実践の要道こそ、法華経です。

四徳波羅蜜は、人類の文化の目的である、所産です。自然は第一次の創造、文化は第二次の創造です。文化によらなければ、四徳波羅蜜は在前しません。文化には個人もなく、国境もありません。人類全体の福祉を創造することこそ、文化の本質です。文化には、物質と精神の二面があります。物心両面のバランスの上に築かれる理想世界こそが、浄土です。

過去の文化は精神に片寄り、現在の文化は物質にかたよっています。歴史は、両者の調和に向かわなければなりません。物心二面のバランスとは、そのクロスにあります。仏心がクロスするとは、精神を軽んずるのでも、物質を否定するのでもなく、その相違を保ちつつ、統合・調和して完全なまとまりになることです。ここに人類が求める真理があります。法華経の説く正法とは、クロスに相違ありません。

日蓮仏教が他の宗教と違うのは、抹香まっこう臭くないこと、生臭くないこと、神仏任せにしないこと、人力を過信しないこと、精神主義に片寄らないこと、物質万能に偏らないこと、観念遊戯にふけらないこと、現実主義におちいらないこと、実相を中道(クロス)に見て、日々の生活に理想を盛り上げるところにあります。その具体的な方法が、日蓮大聖人さま所立の三大秘法です。人類の福祉はここにあります。

平成28年8月

日蓮にちれんわかきより今生こんじょうのいのり(祈)なし。ただほとけにならんとをも(思)ふばかりなり。

『四條金吾殿御返事(四條第十八書)』
建治3年(1277) 聖祖56歳作 全:p903 定:2巻p1384

成佛への祈り

仏とは死者の霊のことだとするのが、世間一般の通念ではないでしょうか。世の中に、広まってしまっている間違いはたくさんありますけれども、これなどはその代表格の一つで、このくらい間違ってしまっていると、戸惑いすら覚えます。

仏すなわちブッダ(仏陀)は、人生の惑いから解脱した大聖者のことですから、仏に成る、成仏するとは、解脱することです。どうしてこんな間違った解釈が社会に浸透してしまったのでしょうか。もし、仏が死者の霊のことであるならば、大乗仏教はもはや無用の長物です。

人間の最も嫌うものは死であり、最も望むものは長寿です。死者の霊が仏であるならば、成仏とは死ぬこと以外の何物でもありません。誰が死を願うでしょうか。死は、免れないものではありますけれども、健康な人は死に急ぐ必要は全くありません。だとすれば、成仏を願う理由もないわけです。大乗仏教の目的は、一切衆生を成仏せしむるところにあるのですから、仏=死というこの通念は、大乗仏教の大敵です。

このような間違いを、誰が世の中に広めてしまったのでしょうか。恐らくは、江戸時代の僧侶たちなのですから、困ったものです。この間の経緯を詳述している余裕はありませんが、寺請制度に立脚した当時の寺院は、生活の安定と布教の不自由を付与され、読経が売り物のようになってしまいました。売り物であれば、その効能を高くいうようになります。死んでから、お寺の住職に読経して貰えば、生前不信心であっても、不徳を働いた者でも、読経の功徳によって帳消しになり、蓮の台(うてな)に乗って成仏できる、ということになりました。神道では、人が亡くなると神さまになる、という考え方もありますし、浄土教では、人が死んで極楽往生する、という教えがあり、こうした思想が相まって、人が死ぬと仏になる、ということに行き着いたのでしょう。ここに、大乗仏教は真面目を失ったのでした。

ひとたび社会通念となれば、なかなか消えるものではありません。お寺は、死者のための場所になってしまいました。生きている者を対象とした新興宗教が発展したのは、当然の成り行きでした。日蓮宗は、今生で仏になる宗教です。この本義を失い、正しい目的を忘れてしまったならば、日蓮仏教の存在価値はありません。

もちろん、供養を軽んじてはなりません。しかし、仏になる祈りを取り戻さずして、日蓮教団に明日はありません。創祖佐日煌聖人が、聖徒団をおこされた所以です。

平成28年7月

日女御前にちにょごぜん御身おんみ内心ないしん宝塔品ほうとうほんまします。凡夫ぼんぷずといへども釈迦しゃか多宝たほう十方じっぽう諸佛しょぶつらん(覧)あり。日蓮にちれんまたこれをすい(推)す、あらたうたし、たうとし。

『日女御前御返事(第二書)』
弘安元年(1278) 聖祖57歳作 全:p1299 定:2巻p1515

心の正体

私たちは五感で物事を知覚します。しかし、五感で知覚できないものが世の中にはたくさんあります。中でも、最も判りにくいものが、自分自身の正体です。これが判れば、世の中の苦労はなくなるのですが、残念なことに、多くの人は、「元品の無明」という心の殻を切り開く術(すべ)を知りません。そのために、自分の持っている力を十分に発揮することができないのです。

人には皆、自惚れ根性があります。自分には取り柄があると思い、自分にはそれなりの能力があると思っています。口を開くと、何かの自慢をし、あるいは、口では謙遜しながら腹の中では自分はひとかどの者だと思いがちです。他人に自慢話をするのはいい気持ちのものですが、他人から自慢話を聞かされるのはどうでしょうか。面白くないばかりでなく、しゃくにさわるものです。それが判っているにもかかわらず、私たちはつい自慢話をしてしまうのです。

こうした事実は何を物語っているのでしょうか。私たち一人ひとりの正体は、天地の主体である寿量ご本仏そのものなのです。無明の殻を被っているので、本人は自覚していません。しかし、心の奥のまたその奥、心の一番深いところに、尊厳極まりない大霊仏がましまししているのです。だからこそ、自尊心という不思議な気持ちが私たちの心を支配しているのです。

言葉を換えていえば、神の表面を無明の衣で包んでいるのが人間です。実体は神なのです。故に、我尊しの気持ちを全ての人が持っています。しかし、無明に覆われていますから、神の働きができません。人生の悲劇はここから始まっています。問題は無明です。無明を取り除けば万事解決します。釈尊はそれに気付かれ、無明の殻を破って、現身に神の境地をまれました。そして、まだ無明の世界にさまよっている一切衆生を、神の境地に引き上げるために佛道を説かれたのです。その極意が法華経であり、法華経の不思議を学者の手から大衆の手に引き渡されたのが、日蓮大聖人さまの三大秘法です。

私たちは、神の生地に人間の模様を染め上げなければなりません。欲気も色気もそのままが人間の模様です。それを無明の生地の上に染めているので、欲気と色気が暗い働きしかしないのです。神の生地に移せば、それがそのまま真実となり、善良となり、美麗となります。南無妙法蓮華経は、その喜びの声なのです。一念随喜して唱えれば、皆、即身成仏します。

平成28年6月

大豆一石だいずいっこくかしこまつて拝領はいりょうおわんぬ。法華経ほけきょう御宝前ごほうぜん申上候もうしあげそうろう一Hひとしずくみず大海たいかいになげぬれば三災さんさいにもせず。一華いっけ五浄ごじょうによせぬれば劫火ごうかにもしぼまず。一豆いちず法華経ほけきょうになげぬれば法界ほうかいみなはちすなり。

『大豆御書』
文永7年(1270) 聖祖49歳作 全:p1153 定:2巻p1809

一Hひとしずくみず

一滴の水はたちまちに蒸発して見えなくなりますが、大海の中に入れば永遠に消えません。一輪の花は無常の風に散って行きますが、毎年咲かせる自然の力は永遠に盡きません。一石の大豆であっても、法華経の行者を養う食糧となれば、法華経の大功徳を現します。聖文は、大豆一石の施主に対する功徳の広大無辺であることを教えられたものですが、本体界に帰るという真理を理解した人は、常に人生に喜びを味わうのです。

私たちは、一個の人間としては、無力であり、無能であり、無常でずが、本体の寿量ご本仏の大生命の一部となれば、偉大であり、有能であり、常住不滅です。寿量ご本仏は大自然の本体であり、人間全体の本体です。故に寿量ご本仏の慈愛と尊厳は、社会全体の幸福と平安の上にあらわたまいます。

神仏という存在は目に見えないものとばかり考えられてきました。知ることのできないものであるから信ずるのであると教えられてきたのです。しかし、これはこかしな話です。目に見えなくとも霊的に存在することを蘊在うんざいといいます。蘊在するものは必ず形を以て現れ、目に見える存在になるのです。例えば、種子の中に植物は蘊在しています。それは、出現する因縁に会うと、その姿を現すのです。神仏もそうです。永遠に見ることもできず知ることもできないものであるならば、存在しないのと同様です。

本体の神である寿量ご本仏は、大自然として現れ、文化として現れ、人格として現れ、常住不滅の活動を続けておられます。私たち人間は、寿量ご本仏の大生命の一コマなのです。寿量ご本仏を大海とすれば、私たちは一滴の水です。人間は個々別々の立場に立てばたちまちに消えて行くはかないものですが、本体の寿量仏に帰り利他博愛を以て社会に溶け入れば永遠不滅です。この喜びを教えられたのが、日蓮大聖人さまの三大秘法です。この世に生まれてきた人は、全て寿量ご本仏の活現体です。小さく利己に生きると神仏に背く苦しみを受け、大きく利他に生きると神仏を現す喜びを受け取るのです。人生の幸不幸の岐路きろはここにあります。聖徒の皆さんは常にこのことを肝に銘じて信仰してください。

平成28年5月

かなかなはぬは御信心ごしんじんによりそうろうべし。まつた日蓮にちれんがとがにあらず。

『日厳尼御前御返事』
弘安3年(1280) 聖祖59歳作 全:p1348 定:2巻p1819

叶う叶わないは信心による

霊験をいただくのは、物を貰うのとは違います。お布施を納めて祈願を頼んだから、それで成就する、というわけには参りません。霊断師の祈願は、お取り次ぎです。叶う叶わないは、皆さん方ご本人のご信心によります。

信心とは、真心をもって祈る純情であり、信心の強弱とは、その熱心さの程度です。純情であり、熱烈であれば、邪悪な願いでない限りは神仏に感応道交かんのうどうきょうします。そう信じて疑わないところに、霊験が現れてきます。この道理を覚って、一心を通すのが祈願です。

倶生霊神符を着帯したから、自分に熱烈な信心がなくとも願いが叶うだろう、ご利益を頂戴できるだろう、と思うのは、信心の意味を理解していないからです。願いも叶いますし、ご利益も頂戴できますが、それは、皆さんの料簡次第なのです。

同じ倶生霊神符を着帯していても、ある人には不思議な利生があり、或る人には一向にご利益がないようなこともあります。神仏の守護にムラがあるのではなく、本人の信心にムラがあるのです。一番大切なのは、必ず心願が叶えていただけるという強固な信を持つことです。それは、平常の信仰によります。信仰は礼拝に始まります。朝に夕にご本尊さまへの礼拝を怠らず、真心をもって、ご宝前に荘厳・清掃し、供花・供物を捧げましょう。そして、日々に四誓願を実行し、できるだけ教団の維持に尽くし、他者を信仰に導いて聖徒団の発展を計り、聖徒の勤めを果たしてください。そこまでできる人であれば、いざという時に、たとえそれが少々無理な願いだとしても、叶えていただくことができるに違いありません。平時の信心がものをいうのです。

日蓮大聖人さまは、日厳尼からの依頼に対して、率直に信心の在り方を教えておられます。上聖文を含むお手紙は、短いものですし、前後があった方がご理解しやすいでしょうから、以下に全文を引いておきます。ご聖訓を味わってみてください。

弘安3年11月8日。尼、日厳の立申す立願の願書、並に御布施の銭一貫文、又たふかたびら(太布帷子)一つ、法華経の御宝前、並に日月天に申上候畢ぬ。其上は私に計り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし、信のよはき(弱)はにごる(濁)がごとし。信心のいさぎよきはすべる(澄)がごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。恐恐。

平成28年4月

おんみやづかい仕官法華経ほけきょうとをぼしめせ。「一切世間いっさいせけん地(治)生じしょう産業さんごうみな実相じっそう相違背あいいはいせず」とはこれなり。かへすがへす御文ごもんこころこそをもひやられそうらへ。

『檀越某御返事』
弘安元年(1278) 聖祖57歳作 全:p991〜912 定:2巻p1493

みやづかい

「御みやづかい」は、主君に奉公することを指す言葉ですが、その意味を広く解すれば、自分の受け持っている仕事をすることの全てが「御みやづかい」です。

誰でも、何らかの仕事が与えられています。その仕事は、法律や道徳の禁ずる、不正・有害なものでない限り、必ず社会にとって必要な業務の一部分を担当しているのです。私たちひとりひとりが社会に必要な仕事を受け持つことに依って、他の多くの人が受け持っている仕事の恩恵を受けて生きて行く、というのが、私たちの生活の仕組みです。

自分の身の回りを観ると、衣食住に必要なもののほぼ全ては、自分の手で作ったものではありません。ほとんど全部、誰かが作ってくれたものです。もし、こうしたおびただしい必需品を自分ひとりの手で作らねばならないとしたら、どうなることでしょうか。そのように考えてみるとき、自分に必要なものが、他者によって懇切丁寧に作られているほど、ありがたいことはないでしょう。人間は、お互いに、社会の役に立つために働きあっています。お金のために働いているというのは一面であり、道に仕えていると解するのが正しいのです。

聖徒団の信仰の肝心は、純真な心で寿量ご本仏に仕え奉り、仏願仏業を相続させていただくことをありがたく思うところにあります。社会のため、家庭のためにつくすことが、そのまま寿量ご本仏に仕え奉ることであり、仏願仏業を相続することなのです。仏願とは、世の中の人の苦しみを救うことであり、仏業とは、地上に楽土を築くことです。その仏陀の悲願は、お互い自らが救われたいと念願していることに対する救いの手であり、お互い自らが憧れている理想社会の実現です。その念願が叶えられ、憧れを実現させる唯一の道は、お互い自らが理解のあるまごころの尽くし合いをする以外にはありません。その真心の現れる道が、寿量ご本仏に対する信仰です。

「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」というのは、天台大師の『摩訶止観』のお言葉で、「諸の所説の法、その義趣に随いて、皆実相と相違背せじ。もし俗間の経書、治世の語言、資生業等を説かんに、皆正法に順ぜん」という法華経の法師功徳品の一節を踏まえられたものです。少し難しいかもしれませんが、経文の心を、どうぞ、かえすがえす思いやり、味わってみてください。

平成28年3月

いま本時ほんじ娑婆世界しゃばせかいは、三災さんさいはな四劫しこうでたる常住じょうじゅう浄土じょうどなり。ほとけすで過去かこにもめつせず未来みらいにもしょうせず、所化しょけもつ同体どうたいなり。すなわ己心こしん三千具足さんぜんぐそく三種さんしゅ世間せけんなり。

『如来滅後五五百歳始観心本尊鈔』
文永10年(1273) 聖祖52歳作 全:p988 定:1巻p712

娑婆しゃば世界せかい

文化は向上し、人智は進歩しています。しかし、この地球世界は一向に平和ではありません。東西対立が終わろうとするかと思ったら、新たな文明の衝突が始まっているかのようです。全人類を滅亡に至らしめ得る核弾頭は、未だに超大国に保有され続けています。人類の文明は、過去において常に戦備に優先的に利用されてきました。各民族は往々にして殺戮を以て相まみえてきたのであり、戦災の惨禍は遥かに天災を凌駕りょうがしています。

道徳は文明国の指針として尊重され、大いに鼓吹されてはいます。宗教も安心立命の要諦として尊重され、敬虔なる信仰は失われていません。しかし、現実の世界の様相は、闘争に明け暮れ、宗教や道徳は、その大義とされてすらいます。

上の聖文は、四十五字法体段と称され、日蓮大聖人さまの教えの根幹要諦とされてきました。しかしそのことばは、明らかに現実に矛盾しています。間違っているのは人類でしょうか、それとも日蓮大聖人さまでしょうか。私たち日蓮門下は真剣に考えなければなりません。観念の遊戯は遠く過去のものとなりました。日蓮佛教の今後の成否は、観心本尊鈔四十五字法体段の科学的な論証と現実的な会通とに懸かっているといって過言ではありません。

結論から申し上げます。日蓮大聖人さまは断じて間違っていません。しかし、人類の実情も上の通りです。四十五字の法体は、地球及び全人類の本質です。人類の現状は、本質開拓の過程なのです。悠久の進化は、人類発生以来の文化史の経過を以て、即断することを許しません。光明は常に私たちの頭上に輝いています。私たち日蓮門下は、大いなる信力を奮い起こし、聖教の実現に努力しなくてはなりません。

残念ながら、日蓮門下の現状は、決して褒められたものではありません。教学は変質衰退し、僧侶の多くは名門利養の徒に堕しています。霊断師会・聖徒団の教勢も沈滞しています。これではいけません。四十五字の法体を現実のものとする以外に、人類が真の幸福を手にする道はありません。そのためには、同心同行の人を一人でも増やすことです。迂遠なようですが、それが一番の近道です。私たちが立ち上がらなければならないのです。

平成28年2月

食法餓鬼じきほうがきもうすは、出家しゅっけとなりて佛法ぶっぽうひろむるひとわれほうけば、人尊敬ひとそんけいするなんどおもひて、名聞名利みょうもんみょうりこころもつひとにすぐれんとおもひ今生こんじょうをわたり、衆生しゅじょうをたすけず、父母ふぼをすくふべきこころもなきひとを、食法餓鬼じきほうがきとて、ほうをくらふ餓鬼がきもうすなり。

『四条金吾殿御書』
文永8年(1271) 聖祖50歳作 全:p863 定:1巻p494

僧侶そうりょ

聖文は、職業宗教家である僧侶にとって、はなはだ耳の痛いご教訓です。弁舌が立ち、立て板に水のごとくに教訓を垂れる「布教家」や、御尤ごもっともなことを勿体もったいぶって説法する「名僧」たちの腹の中に入ってみると、世の中を救う、仏のみ手となることよりも、自分の名聞名利を目的としていることがままあります。

職業宗教家に、その手のまやかし者が多いのは事実であり、立派な寺の住職になったり、宗門の役職に就くことばかりを考えて、真の宗教家になるための学問や修練をおろそかにしている輩が後を経ちません。

名聞名利とは名誉と利得のことです。この二つを手に入れようと願うのは、生まれながらに誰でもが持っている人間の本能に由来します。ですから、宗教家だからといって、名誉心も利欲心も全くない、というわけには行きません。しかし、真の宗教家であれば、こうした人間の天性をよく理解して、弊害のないように自制するとともに、自利を計るばかりではなく、世の中の人の依怙となって、仏祖の救いの道を弘め、自分が行うのはもちろん、他者に行わしめるように努めるべきは当然です。その肝腎なことを忘れると、食法餓鬼になります。

日蓮大聖人さまは、人間の弱点を勘案された上で、子どもに大人の鎧を着せたり、痩馬やせうまに重荷を背負わせるような無理な道ではなく、学問もなく徳もないありふれた人間であっても、純真な信仰さえあれば、人生の幸福を得られる道を開かれました。その道には、僧も俗もなく、男も女もありません。皆が平等に救われる道です。

職業宗教家がいなければ、大聖人さまの救いの道は現代に伝わりませんでしたし、後世に伝えて行くことができません。ですから、少々できが悪くとも、祖道を世に伝え、世人の利益と幸福のために役に立とうとする気持ちを持っていさえすれば、決して食法餓鬼にはなりません。霊断師は心すべし。聖徒の皆さんは、新の霊断師を扶助激励してください。

平成28年1月

日蓮にちれん慈悲昿大じひこうだいならば、南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう万年まんねんほか未来みらいまでもながる流布べし。日本国にっぽんこく一切衆生いっさいしゅじょう盲目もうもくをひらける功徳くどくあり。無間地獄むけんじごくみちをふさぎぬ。

『報恩鈔』
建治2年(1276) 聖祖55歳作 全:p173 定:2巻p1248

慈悲

仏教は、教主釈尊の救いの道であり、衆生済度の大慈大悲の表現です。仏道を相続するということの本筋は、仏学ではなく仏願の継承にあります。法華経如来寿量品に「毎に自ら是の念を作す。何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」とあるのは、仏願の何たるかを端的に示す類い稀なる表現です。

法華経によれば、仏願の真の相続人は本化の菩薩に限られ、その出現も末法の始めの五百歳を期することになっています。仏語を信ずることの篤かった正法・像法時代の聖者たちは、自分は其の人ではない、今は其の時代ではないとして、専ら学解を伝えて実践信行の弘通を遠慮しました。龍樹、世親、天台、伝教、みなそうでした。日蓮大聖人さまは、叡山の学窓に在ってこのことを覚られ、愕然とされました。

日蓮大聖人さまの鎌倉時代は、既に末法に入っていると信じられていました。本化の菩薩がどこに出現するかについては経は説いていませんが、弥勒の『瑜伽論』、肇公(僧肇)の『翻経後記』、伝経大師の記すところなどによれば、それらはどれも日本を指していました。しかし、当時の日本はといえば、流布している仏教諸宗はこぞって正法を毀謗し、国政は乱れて国主である天皇が島流しにされ、天変地夭が相次いで起こり、庶民大衆は塗炭の苦しみにあえいでいるのが現実でした。上行菩薩の出現はさておくとしても、法華経による救済が必要な時代であったのです。

かくて日蓮大聖人さまの開教宣言は発せられました。時代は末法、機根は下劣、国家は乱脈、流布は邪教、その真っ只中にあって、本仏悲願の救いを顕現するのに、学問智解の浅薬を用いて何の効能がありましょうか。「是好良薬」である五字の題目を信唱して具現する霊験奇蹟のみが、正法法華の救護を全うするのです。その証拠に、大聖人一代の行化は霊験奇蹟を以て綴られているではありませんか。

然るに、智解学解を偏重して仏道祖道の本筋を外れた近代の日蓮門下は、仏願祖願を見失ってしまっています。宗学者はその事法を知らず、信解脱の道を理解していません。いま、宗門の教勢は一向に振るわず、教学の沈滞は目を覆うほどです。

仏願祖願の相続人は、聖徒団・霊断師会において他にありません。

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