法話

平成平成29年29年

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平成29年7月

それ大事だいじ法門ほうもんもうすべつにはそうらはず。ときあたつためくにため大事だいじなることを、すこしかんがへたがへざるが智者ちしゃにてはそうろうなりほとけのいみじきともうすは、過去かこかんがへ、未来みらいをしり、三世さんぜしろしめるにすぎそうろうおん智慧ちえはなし。

『蒙古使御書(与大内氏書)』
建治元年(1275) 祖寿54歳作 全:p1075 定:2巻p1113

大事だいじ法門ほうもん

「大事の法門」とは、三大秘法、すなわち本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇のことであり、これが日蓮宗の教義の全てです。上聖文の前半の意は、いま眼前に迫っている問題について、自分の身にとっても、国家の上においても、それについて最も正しい解決を与えるのが智者である、ということですが、つまりは、大事の法門である三大秘法を行ずる者こそが、「我が為、国の為、大事なることを勘へたがへざる」智者であるということです。

日蓮大聖人さまが『立正安国論』において予言せられた他国侵逼の難が、文永11年(1274)10月の蒙古(元)の1回めの襲来によって現実となりました。この時は颱風のために蒙古軍は退散しましたが、翌建治元年、蒙古は我が国へ第7回目の使節団として杜世忠を始めとする5名を遣わし、改めて降伏と服属を勧告して来ます。鎌倉幕府はこれを受け入れることなく、執権北条時宗は龍口において杜世忠らを斬首に処し、蒙古の襲来を迎え撃つ戦時体制に入ります。上聖文は、こうした状況を背景として記されたご文章です。

平成26年8月の「今月の法話」にご紹介した「一切の大事の中に国の亡るが第一の大事にて候也」も、この『蒙古使御書(与大内氏書)』の中のお言葉です。ユーラシア大陸にまたがる大国蒙古に睨まれた日本は、鷹に追われる雀のごとく危うく、まさに亡国の寸前にありました。日蓮大聖人さまはその国難を予言され、原因となっている禍根かこんを取り除き、国家国民を安寧あんねいにする道が三大秘法に他ならないことを仰ったのです。

これは現代においても少しも変わりません。宗教は個人の安心立命のためだけにあると考えるのは大きな誤りであり、国家の安泰を計る道の中に、個人の安心立命が含まれていると考えるのが正しいのです。

三世を見通された仏の智慧を信じ、我が身の息災延命家内安全を祈るとともに、国家の興隆と世界の平和を祈るのが、お題目を信ずる者の正しい心掛けです。この二つの望みが叶えられてこそ、本当の安心立命が得られるのです。

平成29年6月

こうもうすはこうなり。てんたかけれども、こうよりもたかからず。またこうとはこうなり。あつ(厚)けれども、こうよりはあつからず。聖賢せいけん二類にるいこういえよりいで(出)たり。いかいわん佛法ぶっぽうがくせんひと知恩ちおん報恩ほうおんなかるべしや。佛弟子ぶつでしかなら四恩しおんをし(知)って知恩ちおん報恩ほうおんをほう(報)ずべし。

『開目鈔』
文永9年(1272) 祖寿51歳作 全:p32 定:2巻p544

知恩ちおん報恩ほうおん

四恩とは、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国家の恩の四つをいいます(心地観経という経典には、父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩の四恩が説かれており、日蓮大聖人さまも、こちらを用いられることもあります)。四恩のおかげこうむっていないかもしれません。とはいえ、報恩を義務として考え過ぎてしまうと、恩を与えてくれた人の気持ちに添うとは限りません。ですから、自然の情として恩に報いるようになるのが一番です。

人間以外の動物の中でも、成育するまでは親の世話になって大きくなるものが少なくありません。高等な動物ほど、成長の過程で親が子の面倒をみるようです。しかし、育ち上がった時に、親への感謝が見受けられるような動物は、あまりいません。動物に、こうした自然の情が湧いてくることを期待しても無理な相談なのでしょうか。

では、人間はどうでしょう。親を捨てる子、師をないがしろにする弟子などは、珍しい例ではありません。国家の恩や衆生の恩、そして三宝の恩となると、気にもしたことのない人の方が多いかもしれません。

しかし、人間を動物と同じに見るのも誤りでしょう。親孝行の人、師匠に報いている人、国家や衆生の為に励んでいる人もたくさんいるのですから、要するに、我が事のみを先に考え、知恩報恩を後回しにしている、ということなのだと思われます。その誤りに気付かせて頂けるのが、お題目の信仰です。

「今日蓮が唄ふる所の題目は、先代に異なり、自行化他に亘る南無妙法蓮華経なり」(『三大秘法稟承事』「今月の法話」平成25年4月参照)ですので、お題目の信仰をしていると、自分のためばかりではなく、自然に他者の為になる働きができるようになります。それは、お題目の信仰のお蔭をいただくことによって、精神にも経済にもゆとりを持つことができるようになるからです。

自分のことで汲々きゅうきゅうとしている間は、他をかえりみる余裕がないのが自然です。信仰によって、その情けない状態から開放されることこそ、知恩報恩の道なのです。

平成29年5月

日蓮にちれん日本にっぽん第一だいいちのふたう(不当)の法師ほっし。ただし法華経ほけきょうしんそうろうこと一閻いちえん浮提ぶだい第一だいいち聖人也しょうにんなり其名そのな十方じっぽう浄土じょうどにきこえぬ。さだめて天地てんちもしりぬらん。日蓮にちれん弟子でしとなのらせたまいばいかなる悪鬼あっきなりとも、よもしらぬよしはもうさじとおぼすべし。

『妙心尼御前御返事(第二書)』
建治元年(1275) 祖寿54歳作 全:p1270 定:2巻p1103

天地てんち

私たちは、天地自然の力によって作られています。空気を呼吸せずして一刻も生きることはできません。五穀、野菜、肉類、果実等を食せずして、生命を保つことはできません。この事実は、私たちが大自然より生命を承けている歴然たる証拠であるといえます。従って、私たちが、少なくとも肉体に関する限り、天地自然とともに生きていることも明らかです。

肉体なくして生命を語り、生命なくして精神を語ることはできません。であるならば、精神もまた、肉体と同様に、天地を通じ、自然に交わらなければ、その全き働きはできないはずです。天地自然は、常に公明正大です。彼に厚く、此に薄いということはありません。理の定めるところに従って、極めて厳正です。彼に厳にして此に寛なり、ということもありません。果たして人間の心はそうなっているでしょうか。

精神は内に隠れて表には見えません。故に、人は、偽って身を飾り、巧言を以って他者を欺くことができると思いがちなものです。しかし、天地を偽り、自然を欺くことはできません。己れにもし醜いものがあれば、それは心情の醜さであり、己れにもし美しいものがあるとすれば、それは天心の美しさです。私たちが常に美しくあることを願うとするならば、心の中の嘘偽りを拭い去ることに努めなければなりません。

天地のごとく公明正大に、白日のごとく朗然として生きるには、天地を貫く真理の中に身を置くに限ります。これを日蓮大聖人さまは「法華経を信じ候事」と仰いました。信じるとは全てを任せることです。自分勝手をせず、説の如く修行することです。そうすれば、自然に天地に通じ、鬼神を動かす力も現れます。この信念があってこそ、人は光り輝くのです。

人は、元より光り輝いています。それを暗くするのが、心のつたなさです。人は常に美しくあります。それを醜悪しゅうあくにするのが、心の拙さです。何を拙いというのでしょうか。利己を知って利他を顧みず、合理ではなく虚偽を以って処世とすることです。お題目の信仰に身を任せ、「日蓮が弟子」と名乗れるようになれば、自らの心の中に智慧の光明がともされ、心の暗黒が消し去られます。

平成29年4月

日蓮にちれん其身そのみにあひあたりて、大兵だいひょうををこして二十余年にじゅうよねんなり。日蓮にちれん一度いちどもしりぞくこころなし。

『辨殿尼御前御書』
文永10年(1273) 聖祖52歳作 全:p1229 定:1巻p752

大兵だいひょう

日蓮大聖人さまの弘通は確かに戦闘的でした。「大兵ををこして二十余年なり。日蓮一度もしりぞく心なし」とは、まことに大聖人さまらしい物いいであろうかと拝せられます。キリスト教も、イスラム教も、実際に軍隊を率い、武力制服を以って一神教を弘通しましたが、日蓮大聖人さまの場合は、もちろんそうではありません。大聖人さまの戦いは、正義と言論の戦いであり、武器を取っての戦いではありません。

しかし、法敵のためにおびただしい犠牲がでました。何故にその必要があったのか。その意味が解らないと、日蓮仏教の性格を理解することはできません。

宗教は、個人の安心立命を目的として、国家社会の正しい成立については、ほとんど無関心であるのが普通です。日蓮大聖人さまは、個人の真の安心立命は、国家の政治、経済、産業等の裏付けがなければ本物とならない、とお考えになりました。

現実の生活、すなわち国家社会との繋がりを離れて成立する安心立命は、忍従やアキラメを美化する観念の養成であって、真実に生活を安らかにすることにはなりません。強者の横暴が容認せらら、特権階級の専恣を押し付けられる国家社会に、真実の平安があろう筈はありません。日蓮大聖人さまが、立正安国の理想を掲げ、武家政権の前に立ちはだかったのは、その為です。

表面は、仏法の邪正を糺し、現世逃避の念仏思想や、悪平等鼓吹の達磨禅や、仏教の簒奪者さんだつしゃである真言の邪法や、人間の性情を曲げる偽善の律宗の破折にありましたが、それは「佛法は体のごとし、世間はかげ(影)のことし。体曲がれば影なゝめなり」(『諸経与法華経難易事』)という思想に立たれて、国家社会の姿態を思想の根本から匡正しようとする手段でした。故に、帰するところは、武力政治に終止符を打たんとする運動であったのです。

素手で武力に対抗することは、如何にも無謀のように見えます。しかし、近世の聖雄マハトマ・ガンジーも、非暴力によって武力に対抗し、インド独立の目的を果たしました。日蓮大聖人さまの戦闘的規模はもっと大きいのです。故に今も進軍途上にあります。今日の敵は、世界の平和を阻む無思慮です。私たち日蓮門下は、世界国家成立の根固めをしなければならないのです。

平成29年3月

日蓮にちれん佛法ぶっぽうをこころみるに道理どうり証文しょうもんとにはすぎず。また道理どうり証文しょうもんよりも現証げんしょうにはすぎず。

『三三蔵祈雨事』
建治元年(1275) 聖祖54歳作 全:p1071 定:2巻p1066

現証げんしょう

道理は、展開開びゃく以来、揺るぎないものです。道理を発見し、その道理に基づかしめるために、教えがあります。しかし、仏教の教えにも数多あり、その中には、広狭があり深浅があり、正邪があり適不適があります。八万法蔵といわれる仏教の教えの中で、その権実を見極め、正しく優れている教え、りのない道にることは、容易なことではありません。これを学習によってなそうとすれば、いよいよ迷い深く、真実の大法を捉えることは至難の業でありましょう。

日蓮大聖人さまは、現証によって正邪をこころみよ、と仰せになっておられます。これは深く注意すべきご指南です。現証とは、神秘霊験の現れることです(『三三蔵祈雨事』では善無畏、金剛智、不空の三人の三蔵、そして弘法大師、天台大師、伝教大師の、それぞれの祈雨のことを論じておられます)。仏法は道理を教えるのは、謬りを糺して、無益な苦しみを取り除くためです。つまり、苦からの救済が目的なのであって、道理を教えるのは手段に過ぎません。

道理に従って苦から脱れるのは、本人の理解と行いによります。理解力があり、素直さがあり、強い意志を持つ者にはそれができますが、この条件に当てまらない人も少なくありません。従って、教えによって救われる人は、あまり多くはないのです。では、教えによって救われない人を、仏さまは救ってくださらないのでしょうか。これは深く注意すべきご指南です。極めて重大な問題です。

また、いくら智慧があろうが、働きがあろうが、人間の智慧才覚の及びもつかないことが、世の中にはたくさんなります。そういう場合、仏さまはどのように私たちを救ってくださるのでしょうか。この事もまた極めて重大な問題です。

この二つの問題を考え合わせてみるとき、私たちは霊験不思議の救護なくしては救われることがない所以を、お解りいただけることでしょう。

ですから、正法とは、道理に叶っているばかりではなく、仏さまの救いに預かることが出来る法でなければなりません。そうした正法であるならば、理屈よりも現証が先に示される筈です。法華経の講義を聴講して、理解して、感心するだけではまだ浅いのです。お題目の神秘に触れ、如来の救いに感謝できるようになって初めて仏教の深いところに触れたといえるのです。上のご聖訓は、そのことをお教えになったものです。

平成29年2月

いのちもうもの一身いっしん第一だいいち珍宝ちんぽうなり一日いちにちなりともこれをのぶるならば千万両せんまんりょうこがねにもすぎたり。法華経ほけきょう一代いちだい聖教しょうぎょう超過ちょうかしていみじきともうすは寿量品じゅりょうほんのゆへぞかし。

『可延定業書』
文永12年(1275) 聖祖54歳作 全:p1275 定:1巻p862

生命

法華経の如来寿量品には、釈迦牟尼仏の久遠の生命が説かれています。例えば、お自我偈に「自我得佛来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 令入於佛道 爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法」とあるのは、まさにその趣旨を説いた代表的な箇所です。

ところで、寿量品には「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退たい、若しはしゅつあることなく、在世および滅度の者なし」とも説かれています。「如来は三界の実相をありのままに知見する。生れるということもなければ死ぬということもなく、この世における存在もなければこの世から滅するということもない」という意味です。生まれることもなければ死ぬこともない、とは一体どういうことでしょうか。

父母の交配を機として受胎があり生命が始まることは、誰でも知っています。けれども、それは生命が世の中に現れてくる手続きであって、生命そのものを人間の能力によって造っているのではありません。何故に精子と卵子の結合によって新しい生命が生まれるのかは、神の神秘なのです。

私たちは肉体をそのまま生命だと思い込んでいます。だから生まれる時が生命の始まりで、死ぬ時が生命の終わりだと考えてしまいます。しかし、それは、日の出が光の始まりで、日の入りが光の終わりだと思うような錯誤です。肉体は生命の活動を表す方法であり、生命そのものではありません。肉体が老廃すれば、新しい肉体と交換して、生命は続いて行くのです。

生死を離れた神の生命の中に自分自身を発見することが覚りです。この発見は、知識ではできません。それを発見させてくれるのは、信仰のみです。南無妙法蓮華経の祈りによって神秘に触れた時、寿量ご本仏を知ることができるのです。

平成29年1月

そもそくるまもうすは、本迹二門ほんじゃくにもん妙法蓮華経みょうほうれんげきょううしにかけ、三界さんがい火宅かたく生死しょうじ生死しょうじと、ぐるりぐるりとまはり(廻)そうろうところのくるまなり。ただ信心しんじんのくさび(轄)にこころざしのあぶら(膏)をささせたまいて、霊山浄土りょうぜんじょうどへまいりたまふべし。

『大白牛車書』
建治3年(1277) 聖祖56歳作 全:p1032 定:2巻p1412

生死しょうじ

仏教は因果と業の教えです。従って、私たちの今生の宿命は、私たちの前世の業を因とする果ということになります。

私たちには前世の記憶はありません。ですから、前世のあったことを得心することはなかなかできませんが、自らの人生において宿命(さだめ)を感じたことがない人は恐らくいないことでしょう。この世に生まれ出た途端に、吉凶禍福の運命は私たち一人ひとりの上に現れています。赤ん坊に責任はありません。前世の約束というほかないのです。

同一の宿命を持って生まれてくる人はいません。国籍、性別、家柄、容姿、能力等々、私たちは、様々なさだめを持って生まれてくるのですが、これは、自業自得といって、自分の行い(業)の結果を自分で受け取っているのです。

前の世があって、その結果を此の世で受け取るのであるとするならば、この世の結果を受け取る後の世もあると考えられるのは当然です。

結局のところ、私たちの人生は舞台のようなものです。楽屋裏に控えていて、生を得て人生という舞台に立ち、死によって幕を閉じてまた楽屋裏に戻るのです。

演劇の世界では、俳優は役柄を上手に演じることが肝心です。悪役であれば、本人の善悪にかかわらず悪を演じ、それが真に迫っていればいるほど、世の評価を得ることになります。

しかし、人生という舞台の場合は、悪を業として評価されることはありません。評価をくだされるのは、仏さまだからです。

いくら世渡り上手にしても、悪人には悪の酬いしかありません。反対に、世渡り下手でも、善人は善の果報を受けます。此の世限りではありません。必ず未来があるということは、人生の大きな希望です。

因果応報、三世両重の因果は、諦めの思想ではありません。人間が悠遠の希望をかけて、立派な行いができるという真理です。慌ててはなりません。

南無妙法蓮華経の信仰は、三界火宅、此の世は火事の家のようなものだという、その猛火を消し止めて、現在の満足と悠遠の希望と併せて受け取ることのできる道です。この信仰は、決して希望を失わせません。必ず不可思議微妙な救いの手が現れて、苦から救ってくださいます。この世の護りを受ける人は、悪に走ることなく、善を貫くことができます。現世も霊山浄土、後世も霊山浄土です。

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