首導月訓 平成30年の月訓

首導月訓(平成30年10月)

◆仏さまを拝むということは、仏さまと一体になることである。なぜ、仏さまと一体になることができるのであろうか。仏さまと私たちの体(たい=本質)が同一だからである。体が異なるものを幾ら拝んでみたところで、用(ゆう=働き)は起こってこない。私たちの成仏とは何の関係もないのである。

◆例えば、キリスト教では、人間は神の被造物である。神が人間を造った。人間は、神によって、神に似せて造られたけれども神ではない。神に仕え、神の庇護(ひご)を受ける。神に背けば、神の罰を受ける。そうした存在でしかない。

◆法華経の如来寿量品で明らかにされたのは寿量ご本仏である。難しくいえば、伽耶近成(がやごんじょう)であると思われていた釈尊の本地が、久遠実成(くおんじつじょう)であることが説き示された。これを開近顕遠(かいごんけんのん)という。易しくいえば、釈尊の寿命が永遠であることが説き明かされた。

◆これは単に仏さまが長生きであるという話ではない。私たちの生命は、ご本仏さまから分けていただいたものであるということである。釈尊が久遠実成であり永遠の生命を有しているということは、私たち一人ひとりが、たとえどんなに幼稚であり愚劣であるとしても、全ては久遠ご本仏の生命の顕れであることを意味する。

◆だからこそ、私たちはご本仏と同体なのであり、そのご本仏を拝むことによって、ご本仏と一体になることができるのである。

◆私たちは仏さまを内蔵しているのである。この私たちの中の仏さまとしての体を目覚めさせ、用を生ぜしむることを成仏という。その成仏の手続きこそ、南無妙法蓮華経なのである。

日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞

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