必ず不実なりとも、智慧はをろかなりとも、
身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも、
南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし。
『祈祷鈔』文永九年。聖祖五十一歳(七三一頁)
守 護
日蓮大聖人の佛教は「事の一念三千」です。観念と現実が一致する、現実に成佛する教えであるということです。
では、現実に成佛するとはどういうことでしょうか。日蓮佛教の成佛は、悟りを開いて佛になるのでも、三十二相(さんじゆうにそう)八十種好(はちじつしゆごう)を具するわけでもありません。
御本佛、御本尊から守護を頂く、これが成佛ということです。
大曼陀羅御本尊、寿量御本佛に守護されて、この世の様々な苦難から逃れる。それが成佛です。
佛とは、この世の苦から解脱した存在です。したがって、苦を減らすことは佛に近づくことであり、苦から逃れることは佛としての一分を具現することなのです。
お題目の御守護は絶対です。無条件です。「たとえ不実であったとしても、智慧はおろかであっても、不浄の身であったとしても、戒徳は備えていなくても、南無妙法蓮華経と唱えるならば、必ず守護される」のです。
南無妙法蓮華経と唱えさえすれば必ず守護されるという、この無条件の守護こそが、寿量御本佛の大慈大悲の現れです。それが有り体の事実であり、紛う方なき現実です。
自力を条件にして、これこれをしたから守護を得る、とか、あの修行をすれば守護される、というのではありません。
ただお題目を唱える、というそのことだけで、守護されるという結果が顕れる。日蓮大聖人はそう仰っているのです。
守護に自力は必要ありません。たとえ無知蒙昧の人であろうとも、神秘の守護を頂き、その不可思議によって人生の苦から解脱します。博学多聞の人が、修行をして、覚りを得るのと、同じ結果を得ることができます。これが、お題目の守護であり、日蓮佛教の真相です。
寿量御本佛に守護されている喜びをしみじみと味わいつつ、ともに南無妙法蓮華経と唱えましょう。