令和8年の法話 今月の法話

今月の法話(令和8年1月)


伊蘭いらんをにくまば栴檀せんだんあるべからず。

『祈禱鈔』文永九年。聖祖五十一歳(七三一頁)

らん煩悩ぼんのう)とせんだん菩提ぼだい

 「盛運祈願会」に参列されておられる方には、この『祈禱鈔』の一節はお馴染みのことと思います。
 「伊蘭」は、サンスクリット語「エーランダ」の音写語です。トウダイグサ科のトウゴマのこと、と言われてもよく判りませんが、悪臭を放つ毒草だそうです。その悪臭は、遙か彼方からもにおい、食べれば「狂を発して死せん」と言われるほどの猛毒であるとされます。こうしたことから、伊蘭は私たちの「煩悩(迷い)」に喩えられています。
 「栴檀」は、サンスクリット語「チャンダナ」の音写語です。白檀・赤檀などの種類があり、良い香りを放つ香木なので、お焼香で使用されたり、珠数や佛像などにも用いられています。ここから、栴檀は私たちの「菩提心(悟り)」に喩えられます(日本にも「センダン」という同じ名前の植物がありますが、全く別の種類です)。
 佛典では、伊蘭の林の中に生えている栴檀、という説かれ方がされることが多いようです。
 この場合、主に二つの意味合いがあります。
 一つは、「伊蘭の林に交われども赤栴檀の香は失せず」という諺になっているように、栴檀の芳香は、伊蘭の悪臭の中にあっても変わらない、という意味での用いられ方です。まわりの環境がどうであっても本質の良さは失われない、煩悩の中にあっても菩提は不変である、という文脈で、菩提の尊さが強調されます。
 もう一つは、伊蘭の林に分け入ってこそ栴檀が得られる、という意味での使われ方です。好ましくないと思われるものを離れては望ましいものは存在しない、煩悩と菩提は二爾不二である、という説かれ方で、菩提が尊いのはもちろんなのですけれども、むしろ、煩悩なくしては菩提を得ることが出来ないこと、菩提(栴檀)と煩悩(伊蘭)とは不可分であることに力点が置かれます。
 右の御聖文では、日蓮大聖人が、後者の意味で用いられておられることは、首肯していただけることでしょう。
臭いからといって伊蘭を厭い避けていたのでは、栴檀の芳香は得られない。
 こうした思想を「煩悩即菩提」と申します。
これは、煩悩がそのまま菩提につながる、という大乗佛教の考え方です。煩悩と菩提とは対立するものではなく、煩悩もまた真理(真如)の現れであるとするのです。煩悩を離れて菩提を得ることはできず、煩悩そのものの中に悟りの縁がある、と思料するのです。
 「煩悩即菩提」を突き詰めたのが日蓮佛教であり、私たちの現実の生活の中にこそ、南無妙法蓮華経の道があるのです。

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