聖徒団信仰Q&A

聖徒団信仰Q&A〈第52回〉 身延山

質問ちゃん
問 身延山はなぜ日蓮宗の総本山なのですか?(石川県 30代 女性)
お答え上人
日蓮大聖人さまは、文永11(1274)年5月17日、身延山にご入山され、一ヵ月後の6月17日に、現在の西谷の地に草庵を結ばれ、以後弘安5年(一二八二)9月、療養のために常陸の湯へ旅立たれるまでの9年間を身延山で過ごされました。
『立正安国論』上呈以来の三度の国家諫暁が入れられず、「三度国をいさむるに用いずば山林にまじわれ」という故事に倣われたもので(『報恩鈔』)、甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)公の招きによったものでした。
 53歳から61歳までの晩年は、法華経への給仕、門下の教化、そして御述作の日々でした。弘安4(1281)年11月24日には本格的な堂宇を建築され、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。
『松野殿女房御返事』には、「我が身は釈迦佛にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」と記されるなど、本朝の霊鷲山、天台山が身延山であると仰っておられます。
 また「日蓮が弟子檀那等は此山を本として参るべし。此則ち霊山の契也」と仰り、「縦(たとい)いづくにて死候とも九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り候(そうろう)山なれば、墓をば身延山に立させ給へ。未来際までも心は身延山に可住(すむべく)候。」と御遺言されました(『波木井殿御書』)
更に、明治5年に、政府の宗教政策に順って、身延、池上、中山、四条、六条の五山が大本山となって門下を統合して一宗を形成することとし、身延を首席とすることを定めました。
 かくして、(一)本朝の霊山、(二)祖師棲神留魂の山、(三)門下統合の中心とする制度が形成され、身延山が日蓮宗の総本山となって行ったのです。
 聖徒団は毎年日蓮宗聖徒団全国結集身延大会を開催して参りましたが、今年は第60回目の記念大会になります。聖徒の皆さまも大会に参加して身延山にお参りいただき、皆で日蓮大聖人さまに日々の信行のご報告をし、報恩感謝の誠を捧げましょう。

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