此の法門を聞きて忘れず信解せば
即身成佛すべし。
『当体蓮華抄』弘安三年八月一日。聖祖五十九歳。
聞きて忘れず

年齢を重ねると、物忘れが多くなるものです。会話の中で固有名詞がなかなか出てこず、「あれ」「それ」などと言ってもどかしい思いをされている方もいらっしゃるのではないでしょうか。でも、たとえ思い出せなくても、思い出そうとするだけで、刺激になって脳にも良いとのことです。
都都逸という、主に男女の情愛を七・七・七・五の音律で歌う定型詩がありますが、その中の一つに「思い出すよじゃ惚れよが薄い、思い出さずに忘れずに」というものがあります。思い出すということは忘れているからで、恋心が薄いのであって、本当の恋心は「思い出す」のではなく「忘れずに」いるものだということで、人情の機微を言い当てていると言えましょうか。これは男女の情愛を歌ったものですが、信仰の世界に置き換えても、同じことが言えそうです。
今月の御聖文を拝読してみましょう。「此の法門を聞きて」とは、もちろん法華経の法門、日蓮大聖人の教えのことであり、端的に「南無妙法蓮華経」の信仰のことと受け取って頂いても宜しいかと思います。お題目の信仰を忘れずに「信解」するならば、この身このままで即身成仏することが出来る、とのご教示です。
「信解」とは、字義通りに解釈すれば「信じて理解する」ことですが、法華経の分別功徳品に法華経修行者の位として現在の四信と滅後の五品とを説き、その現在の四信の第一を「一念信解」と言い、初信とも名づけます。大聖人はこの一念信解を法華経の名前だけを聞いて信心を起した無解有信の「名字即」の位とされ、末代法華行者の信行のあり方について「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分となすなり」と教示されました。即ち、末代初心の行者は題目を受持する以外に道はないとし、これを一念信解・初随喜とされたのです。
大切なのは「忘れず」ということです。普段の生活において、いつも南無妙法蓮華経を心の中に持ち続けることが肝心です。お寺や仏壇の前で祈る時だけが信仰ではありません。手を合わせていないとき、お題目をお唱えしていないときでも、お題目を心の中にいつも「思い出さずに忘れずに」持ち続けることにより、私たちに佛としてのはたらき(用)が顕れて来ます(即身成佛)。
とは言え、二六時中、お題目を自覚して過ごすことは誰にもできません。そのためにあるのが倶生霊神符です。どんな時でもお題目を「思い出さずに忘れずに」たもち続けされてくれるのが、倶生霊神符を着帯するということなのです。
今月の御遺文は、霊断師会の伊丹日顕会長が貫首をされている、京都の本山・広宣流布山本願満足寺(本満寺)に写本が伝わっている『当体蓮華抄』の一節です。「当体蓮華」とはすなわち、私たち凡夫の身が、そのまま妙法蓮華経の当体(=本体)であるということ、つまり「生身の人間が、そのまま御本佛(妙法蓮華経)の現れである」ことを意味します。