人類最大の敵
夏が近づいて来ると、境内の掃除をしている最中に、蚊や蜂、虻(あぶ)といった虫たちが現れ始めます。実を申しますと、私は虫が大の苦手。そのため、境内の清掃は、身体に携帯する蚊取り線香を焚きながらしますし、普段から殺虫剤を肌身離さず持っています。
近頃の殺虫剤は非常に進化していて、ワンプッシュするだけで半日は殺虫効果が続くもの、火や電気を使わずに害虫を駆除できるものなどが出て来ており、文明の進歩はありがたいものだと感じております。
10年ほど前、「デング熱」という感染症が日本でも話題になりました。その年は、東京を中心に感染者が三桁にのぼり、マスコミなどでも話題になりました。
この騒動から、日本でも、蚊に刺されることへの警戒心が高まったように思います。私が子どものころは、夏に蚊に刺されるのは当たり前のことでしたが、病気につながるかもしれないとなれば、用心するようになるのも当然です。そもそも、蚊は右のデング熱をはじめとして、マラリア、ジカ熱、そして日本脳炎など、多くの感染症を媒介することで知られていて、世界中で毎年80万人以上の人が蚊の媒介する感染症によって亡くなっており、「人類最大の敵」とも呼ばれているほどです。
とは言え、立場を換えてみれば、人間の生活圏に入り込んだために殺されてしまうのですから、蚊にとっては迷惑な話かもしれません。私たち人間の「快適な生活」のために虫を駆除することが当たり前になっていますが、かつて仏教の不殺生戒は、虫にも及んでいたのです。
盂蘭盆の起源と深く関係する夏安居(うあんご)(雨安居)という慣習は、日頃は遊行(ゆぎょう)生活をしていた修行者が、夏の雨季には一箇所に定住し、集中的に修行を行った期間ですけれども、これは、雨季には虫が多く活動するため、不用意に殺生をしないように、寺院などに籠って修行をしたことが始まりとされるほどです。
さすがに、害虫駆除反対の狼煙(のろし)を上げるつもりはありませんけれども、もう少し、小さないのちのことを考えてみても良いのではないかとも思われます。
「いのち」の上に成り立つ
「いのち」
殺虫剤を製造・開発している企業のなかには、「虫供養」を行っているところもあるそうです。マスコミをはじめ、さまざまな媒体でも紹介されていますから、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、実験のために犠牲にした虫たちの魂を供養しているそうです。こうした姿勢には、人間中心の価値観を超えて、「いのち」に向き合う謙虚な姿勢が感じられます。
自坊の近くにある某大学病院で、戦前のある時期、動物実験中に事故が頻発するようになったことがあったそうです。「何か因縁があるのではないか」とのことで、当山に相談が持ちかけられ、実験に用いた生き物の慰霊法要を始めたところ、次第に不可解な事故は収まっていったと聴いております。
しかし、平成の末の頃から、「信教の自由」という名目のもと、法要が営まれなくなり、献花式だけで済ませるようになったようです。「いのちを悼む」という心が残っていることに、安堵を覚えつつも、何か釈然としない思いが残ります。
どのような暮らしをしていても、私たちのいのちは、別の生き物のいのちの上に成り立っていることは動かせません。蚊を退治してはならぬ、ハエやゴキブリを駆除することはけしからぬ、というワケにも参りません。しかし、それを「当然」とするのではなく、自分のいのちが他のいのちの犠牲の上に成り立っていることに対する感謝と、「不殺生戒」を犯しつつ生きて行かざるを得ないことへの懺悔(さん げ)の心をもって日々を送ることが肝要です。
ものの命をたつもの此の地獄(=等活地獄)に堕(お)つ。螻蟻蚊蝱(ろうぎもんもう)等の小虫(しようちゆう)を殺せる者も懺悔(さんげ)なければ必ず地獄に堕つべし。譬へばはり(鍼)なれども水の上にをけば沈まざることなきがごとし。
(『顕謗法鈔』)
日蓮大聖人さまが仰ろうとしておられるのは、懺悔しない心は地獄の心である、ということです。
殺生を当たり前としていのちの尊さに気付かぬ人たちばかりの世の中になるならば、それはまさに地獄と呼ぶにふさわしい世界になってしまうことでしょう。
お題目をお唱えし、私たちが日々知らず識らずのうちに積み重ねている小さな罪を清め、懺悔滅罪の生活を過ごすことが、私たちが幸福となる秘訣です。