紙上法話

安車蒲輪(あんしゃほりん)の心はいずこに

漢の武帝の故事



  「安車蒲輪」という成句をご存じでしょうか。ワープロが変換してくれませんから、ご存じでない方が多いかもしれませんね。
 この四字熟語は、「老人をいたわり、手厚く待遇すること」のたとえです。また転じて、「賢人を優遇し、礼を尽くして招き入れること」という意味でも使われます。
 「安車」とは、老人や婦女子が座って乗れるように、特に低く造られた屋根付きの小さな車(馬車)のことです。「蒲輪」は、車の振動を和らげるために、車輪を蒲(がま)の穂や葉で包んだもののこと。
 昔の中国の車は、基本的に立って乗るものでした。「安車」は、身体に負担がかかる老人のために座れるようにし、「蒲輪」は、デリケートな老人の身体に振動が響かないよう細心の注意を払った特製の車を意味します。
 すなわち、「安車蒲輪」は、最高の配慮と敬意をもって老人を遇する様子を具体的に表した言葉です。
 この成句は、中国の歴史書である『漢書(かんじょ)』の「儒林伝(じゅりんでん)・申公伝(しんこうでん)」に記された故事に由来します。
 漢の武帝(ぶてい)が即位した際、八十余歳という高齢であった儒学者の申公を、魯(ろ)の国から中央に招こうとしました。
 その際、武帝は使者に対し、申公を招くための車として、「安車をして蒲(がま)を以て輪を裹(つつ)み、駟(し)に駕して申公を迎う」(安車を用意させ、蒲で車輪を包み、四頭立ての馬車に仕立てて申公を迎える)と命じたのです。
 これは、国のトップが、高齢の賢者である申公の身体を深く案じ、最大限の敬意といたわりをもって厚遇したという出来事です。この故事から、「安車蒲輪」は老人や賢者を厚遇することの代名詞となりました。

年寄り笑うな、行く道だもの

 さて、高齢者の交通事故が増えているそうです。高齢者が増えているのですから、その事故も増えるのは当然のこととも言えます。高齢ドライバーの割合を考慮すれば、高齢ドライバーの事故率は、むしろ少ないくらいです。ところが、高齢者の交通事故が報じられるたびに、「老人は免許を返納すべきだ」という、断罪と排除の風潮が高まっているように感じられます。もちろん、安全への配慮は不可欠ですが、ここで仏教の教えに立ち返ってみてはいかがでしょうか。
 人生はすべて四苦八苦(しくはっく)の苦しみに満ちています。四苦とは、生・老・病・死、つまり「生きる苦しみ」「老いる苦しみ」「病の苦しみ」「死ぬ苦しみ」です。
 このうち、「老いる苦しみ(老苦)」は、誰もが逃れられない真理です。身体の衰え、判断力の低下は、誰もが必ず通る道であり、決して恥ずべき罪などではありません。
 にもかかわらず、現代社会は、老いを負の側面ばかりで捉え、その自然な衰えを理由に、高齢者を社会から切り離そうとしがちです。これは、私たちがいずれ向かう道である老いを恐れ、断罪しているに他なりません。
 では、この「老苦」という普遍的な問題を、どう乗り越えればよいでしょうか。
仏教は、天地自然とその法則を指して「法身仏」といい、その法身仏をもって生命を活動させ、創造して行く文化を指して「報身仏」と説き、人間の日常生活に現われる人格の価値である慈悲活動を指して「応身仏」とし、その三身即一を総和の人格とし、理想とします。
 現代社会における「老苦」に伴う運転の不安や、移動の自由の喪失という苦しみは、文化活動、すなわち、テクノロジーと社会制度によって大きく軽減できるはずです。
自動ブレーキ(衝突被害軽減ブレーキ)、ペダル踏み間違い防止装置、運転支援システムなど、現代版「蒲輪」の安全技術は枚挙にいとまありません。
 これらのテクノロジーは、人間の判断の「衰え」を補い、事故の可能性を劇的に減らすことができます。高齢者を単に責めるのではなく、「老苦」に寄り添い、安全に運転を継続できるように支える現代的「安車」の提供です。
 技術が優れていても、費用の問題で利用できなければ意味がありません。国や自治体が、安全ブレーキなどの後付け装置の購入や新車への装着に対し、高齢者割引制度や補助金制度を設けてみるなどしてみてはどうでしょう。安全運転を続ける意思と能力のある高齢者が、最新技術を利用しやすくする。こうした制度こそが、老いをいたわり、安全に社会に参加できるようにするという「安車蒲輪」の精神を、現代の形で実現することになるのではないでしょうか。
 誰もが安心して老いを迎えられる社会を目指し、互いの「老苦」をおもいやる、慈悲の心を持って、総和の理想を実現して参りましょう。

日蓮が法華経を信じ始めしは、日本国には一渧(てき)一微塵(みじん)のごとし。法華経を二人、三人、十人、百千万億人、唱へ伝ふるほどならば、妙覚の須弥山(しゅみせん)ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。佛になる道は、此よりほかに又もとむる事なかれ。『撰時鈔』建治元年(一三四頁)

 人類の願いは、幸福と繁栄です。法華経は、諸経の王と称えられて来ましたが、真に人類の幸福と繁栄に役に立つようになったのは、日蓮大聖人が三大秘法に消化せられてからです。大聖人以前には、法華経の教理の素晴らしさは讃歎されども、そこに籠められた神秘の力は見過ごされて来たのです。教理は大切ですが、教理のための教理では絵に描いた餅です。一切衆生が願うのは、現実の利生であり、救いと護りです。三大秘法こそがその答えなのです。
 自分の為し得ることについては、援助を期待するのではなく、自身で努力すべきです。しかし、この世のことは、私たちが自分の力で解決できることばかりではありません。遺伝と宿業は、しばしば私たちに制約を課しますし、人生行路には、思わざる災厄を蒙る運命が待っていることもあります。
 もし、厄災から護られ、幸運を授かる道がないなら、私たちの人生は常に不安に晒されます。人類が幸福と繁栄を得るには、人をして自力を完全に発揮せしむる真理の道とともに、その努力を助勢する幸運の道と、その努力を守護する免災の道とが、是非とも必要です。日蓮大聖人は、この二つの道を拓いてくださいました。
 法華経の信は、教理の実践と祈りの神秘を成就します。故に、先ず祈りから入って守護の神秘に触れ(本門の題目)、感謝報恩の敬虔の念に住して凡佛同体の悟りに徹し(本門の本尊)、衆生愛護の菩薩道を日常生活の信行に現す(本門の戒壇)ことが肝要です。かく為せば、必ず法華経の行者となり、幸福と繁栄を双手に捉えることが出来ます。この会通を以て、右の聖文を領解しましょう。

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