法要での大失敗

1月10日、まだお供え餅が飾られている御宝前で、今年最初の年回法要をいとなみました。
その時、私は取り返しのつかない間違いをしてしまったのです。
お施主さまの母上の第三回忌の法要だったのに、なんと父上の三回忌として回向してしまったのでした。
読経を済ませ、法話に入ろうとしたところで施主さまからご指摘があり、血の気が引きました。親族の方からは「こんなことはあり得ない」と強い抗議。
どうしたものかと思案に暮れましたが、お待ち頂けるとのことでしたので、施主さまにご猶予をいただき、いったん控室にお戻り頂いて、仮位牌など本堂の支度をやり直し、卒塔婆を急ぎしたため、法要をやり直しました。
そのお宅は、一昨年の1月に母上を、9月に父上を霊山に送られました。一周忌はどうされるかと思っておりましたら、別々に修されましたので、御奇特なことと存じます、と御挨拶をしていたにもかかわらず、そのこともすっかり失念していたのでした。
二座目の法要を行う際に改めてお詫び申し上げ、
「まことにお詫びのしようのない失態で、申し訳ありませんでした。小衲の過失についてはお許しくださいとはとても申し上げられませんが、日蓮大聖人さまは『瞋りの心は地獄の心』であると仰っておられます。せっかくの母上さまのご供養に際し地獄の心のままに手を合わせていただくのは、日蓮大聖人のご名代として法要を導師した者として大聖人にもご両親にも申し訳ない次第であります。私の失態でみなさまに地獄の心を起こさせてしまった事ではありますが、法要中は小衲への憤りのお気持ちは一旦仕舞っていただき、母上さまへのお題目を捧げていただきますようお願い申し上げます」
と頭を下げました。
法要終了後、改めてお詫び申し上げようとしたところ施主さまがこうおっしゃいました。
「母の三回忌のつもりが、父の供養までしていただき、ありがとうございました。母も父と一緒に供養してもらえて喜んでいると思います。どうぞお気になさらないでください」。その一言で、気まずさの残っていた場の空気が一変いたしました。誠に痛み入ったことでした。
忍辱は総和への心
新年早々大きなミスをした私が申し上げるのもなんですが、人はだれしも過ちを犯します。私などは、幼少期から落ち着きがなく、ケアレスミスをすることが少なくありませんでした。性格的に短気なところがあり、一般の職場で中間管理職を務めていた折に、部下のミスを強く叱ってしまったこともあるました。大きな声で怒鳴ったりすると、職場の雰囲気を悪くし、叱られた部下は萎縮して、仕事は滞り、何一つ良いことはありません。今更に過去の自分への反省と共に仕事をしてくれた仲間に改めて感謝です。
普段からよく仕事をしてくれている職員が、やり直しのきかないミスをしたことがありました。しかし、日頃の仕事ぶりを思うと、叱りつける気持ちになりませんでした。私は「仕事をしているからこそミスをすることもある。仕事をしない者はミスもしない。気に病まなくていいよ」と言っていました。
叱責を覚悟していた部下が胸をなでおろしたのはもちろん、私がカミナリを落とすかもとピリついていた空気が、和んで行くのが感じられました。後日、「あの時は、叱られるよりも心に応えました。もっとしっかりしようと思いました」と言ってくれました。赦す言葉は、相手の心の扉を開くのだと実感いたしました。
仏教では、古来、貪・瞋・痴を三毒とし、最も悪しき煩悩としてきました。特に「瞋恚(しんに)」は地獄の因とされ、日蓮大聖人さまも「瞋(いか)るは地獄」(『観心本尊鈔』)と仰っておられます。
菩薩の修行徳目である六波羅蜜にはその第三に「忍辱(にんにく)」が上げられています。法華経の法師品には「如来の衣とは、柔和忍辱の心是れなり」とあり、勧持品には「当に忍辱の鎧を著るべし」と説かれています。
「瞋恚」を克服し、穏やかな心を保つのが忍辱です。
供養とは、尊きいのちを敬い、功徳を回らせる営みです。取り違えという大過を犯した私に対する、施主さまの言葉は、まさに忍辱の行の賜物でした。あの赦しが、亡きお母さま・お父さまへの供養をいっそう豊かなものへと転じたものと信じます。そして、私自身、過ちを恐れて縮こまるのではなく、過ちから学び、皆さまに仏道を伝える道を歩み直したく存じます。
赦す心は、弱さではありません。相手の仏性を信じ、自らの怒りを御して歩む、最も強い心であり、菩薩の勇気です。単に我慢するというのではなく、悟りへ向かうための積極的な修行として位置づけられているものです。
場の空気を和らげ、対話を再開させ、萎縮を創意に変化せしめ、責め心を協働に昇華させるのが、赦しの心ではないでしょうか。
年の初めの失態が、赦しの心の大切さを改めて学ばせて頂く機会となった、というお話をさせて頂きました。今年は反省の1年です。
我身は天よりもふらず、地よりも出でず、父母の肉身を分たる身也。我身を損ずるは父母の身を損ずる也。此道理を弁へて親の命に随ふを孝行と云ふ。親の命に背くを不孝と申す也。『出家功徳御書』(八二四頁)
「今時親孝行などという古い道徳を持出すと、若い者は時代遅れだと思うであろう」と昭和40年に創祖はお書きになりました。それから60年も経つのですから、「孝行」はますます古い道徳になってしまっているかもしれません。
東洋では、親子のタテの関係を基本にして道徳が成立し、西洋では夫婦のヨコの関係を基本にして倫理が成立しています。タテの道徳は、先祖伝来の家統を名誉の象徴とし、孝や忠義を讃歎する傾向を有し、ヨコの倫理は個人の自由を天賦の権利として、男女の恋愛に人生の法悦を感じる傾向がある、と創祖は仰っています。
『旧約聖書』の「創世記」では、人類の祖であるアダムとイブは、神に背いた原罪を子孫に伝えた存在でしかありません。西洋社会で祖先崇拝の気持ちが薄くなるのも道理と言うべきでしょうか。
日蓮仏教の道徳は、四恩報謝を根本とし、報恩を以て第一の徳目とします。四恩とは、父母、師匠、三宝、国家に対する恩です。『開目鈔』に「佛法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。佛弟子は必ず四恩を知って知恩報恩を報ずべし。」(三二頁)とあります。大聖人は、世界の思想の高低を「報恩」の成否によって判ぜられておられもするのです。
人間が成長する過程で、父母、師匠、主君、社会に恩を受けない人はいません。この頃は「子供に迷惑をかけたくないから、自分の葬儀はしなくてよい」と言う親御さんがいるようです。四恩は先ず第一に父母の恩です。自分の親にそんな思いをさせるようでは、知恩報恩しているとは言えません。
右の祖文をよく噛み締め、孝道を歩みたいものです。それは、親を大切にすると同時に自身を大切にすること、三宝の恩を報じ、仏道を歩むことともなるのです。