
質問ちゃん
問 地獄はどこにあるのですか?

お答え上人
地獄は、梵語でナラカと言い、奈落迦などと音訳され、転訛して奈落(ならく)ともされます。「奈落の底に落ちる」の成語をご存じのことでしょう。
私たちの世界を閻浮提(えんぶだい)と申しますが、地獄はその遙か下にあるとされます。地獄にはさまざまな種類がありますが、代表的なものが八大地獄です。その中の最初、一番マシな等活(とうかつ)地獄は、閻浮提の地下一千由旬にあるとされます。
由旬(ゆじゅん)(梵語ヨージャナ)は、古代インドの長さの単位です。「くびきにつける」の意味で、一由旬は、牛に車をつけて1日引かせる行程を意味し、7~8kmから十数km程度のようです。
八大地獄の中で最下にあるのが無間(むけん)地獄(阿鼻(あび)地獄)です。他の7つの地獄よりも大きく、縦横高さそれぞれ2万由旬(8万由旬説とも)と言われます。この地獄に到達するには、真っ逆さまに落ち続けて2千年かかるとされています。
さて、地球の直径は、1万2千7百kmほどですので、だいたい1千由旬ほどとなります。すると、地獄は、地下を通り越して地球の向こう側にあることになってしまうのですが、果たして昔の人たちは、それを知らなかったから地下に地獄がある、と考えたのか、物理的な位置関係とは別の次元の思考をしていたのかは、議論の分かれるところかもしれません。
『報恩鈔』に「無間地獄の道をふさぎぬ。」とあるように、大聖人さまにとって、堕地獄からの救済ということは大きなテーマであらせられ、『顕謗法鈔』には八大地獄に堕ちる業因とその様相が詳述されています。それは、現代的な知識をお持ちでなかったから、ではなかったでありましょう。
一方、『重須殿女房御返事』には「そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候」と教えておられます。
経典等に空想的に説かれたところの教相や観念を、私たちの現実世界での経験心理に捉え直されておられるのです。これを、日蓮仏教の事の一念三千の法門、と申します。
私たちの世界を閻浮提(えんぶだい)と申しますが、地獄はその遙か下にあるとされます。地獄にはさまざまな種類がありますが、代表的なものが八大地獄です。その中の最初、一番マシな等活(とうかつ)地獄は、閻浮提の地下一千由旬にあるとされます。
由旬(ゆじゅん)(梵語ヨージャナ)は、古代インドの長さの単位です。「くびきにつける」の意味で、一由旬は、牛に車をつけて1日引かせる行程を意味し、7~8kmから十数km程度のようです。
八大地獄の中で最下にあるのが無間(むけん)地獄(阿鼻(あび)地獄)です。他の7つの地獄よりも大きく、縦横高さそれぞれ2万由旬(8万由旬説とも)と言われます。この地獄に到達するには、真っ逆さまに落ち続けて2千年かかるとされています。
さて、地球の直径は、1万2千7百kmほどですので、だいたい1千由旬ほどとなります。すると、地獄は、地下を通り越して地球の向こう側にあることになってしまうのですが、果たして昔の人たちは、それを知らなかったから地下に地獄がある、と考えたのか、物理的な位置関係とは別の次元の思考をしていたのかは、議論の分かれるところかもしれません。
『報恩鈔』に「無間地獄の道をふさぎぬ。」とあるように、大聖人さまにとって、堕地獄からの救済ということは大きなテーマであらせられ、『顕謗法鈔』には八大地獄に堕ちる業因とその様相が詳述されています。それは、現代的な知識をお持ちでなかったから、ではなかったでありましょう。
一方、『重須殿女房御返事』には「そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候」と教えておられます。
経典等に空想的に説かれたところの教相や観念を、私たちの現実世界での経験心理に捉え直されておられるのです。これを、日蓮仏教の事の一念三千の法門、と申します。