
◆「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を三法印という。佛教の根本原理である。前の二法印は永久不変の真理である。
◆しかし、この二法印を実際生活に適用する際、真理に忠実であろうとすると、非社会人(世捨て人)を理想とすることになりかねない。一方、社会人を全うしようとすれば、二つの真理に背を向けることになりかねない。
◆この矛盾を解決する道として、釈尊は「涅槃寂静」を説かれた。ところが、その境地は非常に微妙でなかなか容易には捕捉出来ない。
◆この問題を煎じ詰めると、欲を捨てる立場を「涅槃寂静」とする考え方と、欲に囚われない立場を「涅槃寂静」とする考え方に分かれる。前者は、出家遁世して非社会人となり、人生を捨てることによって人生苦から逃れるところに行き着く。
◆自分の生命にも生活にも執着を持たないこの境地に到れば、心の自由を得て、さぞ満足した人生が送れるであろうと想像は出来るものの、これを人生の極意であるとはどうしても言いかねるものがある。
◆人生は生命を土台にして成り立っている。生命が無ければ、全ては無である。しかるに、生命の営みの上に現れて来る苦悩を逃れるために欲を否定することは、結局のところ生命を否定することに繋がってしまう。
◆故に、欲に囚われない立場を開くことを「涅槃寂静」とする見方に立たなければ、佛法の真義に触れることは出来ないのである。
◆佛陀釈尊は、この意味の「涅槃寂静」を「中道」「正道」と仰った。この考え方の延長展開が、大乗佛教思想発展の歴史である。その到達点こそが、菩薩を佛陀如来の常住不滅の活動体としてみる法華経如来寿量品の思想に他ならない。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞