紙上法話

死後の受け取め方を考えてみよう

刑務所に呼ばれ受刑者の皆さんと


「人は死して後、どうなるのでしょうか?」

 私は刑務所にご縁がありまして、頻繁に呼ばれて参ります。

 刑務所内で生活されている方達にも信教の自由が保証されており、求めに応じて宗教者(教誨師)が呼ばれ、お話を聴いたり、供養をしたりいたします。法話を頼まれることもありますので、私は時折冒頭の言葉を投げかけて受刑者の皆さんに質問をしてみるのです。岐阜の刑務所は比較的刑の重い方が多く、生涯を暮される方もあります。

 近代的な教育を受けて育った人は「死んだらおしまい」という意見を持つ人が多いようです。

 私はさらにこんな質問を投げかけてみます。

 「死んだ後も自分の命には続きがあるでしょうか? それとも死んだら命はすっかり消滅し、他人の記憶の中に過去の姿が残るだけなのでしょうか?」。

 絶句する方、読書などによって養った自説をお話しになる方、信仰する教えに説かれている通りにお話しになる方と、様々です。

 「では、死んだら全てはそこで終わり、成し遂げた偉業も功徳も一緒に消えて無くなる、犯した罪も悪事も全ては死ぬまで隠し通し、逃げ切ればそれで帳消しになるという信念の人と、死後も続きがあって、生きている間に解決しなかったことに取り組め、また成し遂げた功徳を繰越し、犯した罪と向き合い続けるチャンスは続くと信じている人と、どちらをあなたは信じますか?」

 ここまで来ると「死んだらおしまい」と考えている人の方を信用する、と答える方は、ほとんどいません。

 「死んだらおしまい」だと言っていた方が、「続きがあると信じて生きる」生き方の意味に、眼を開いてくださる瞬間です。

 現代を生きる我々は事実を主体にものを考えがちです。そして、それを合理的に理解しようとします。解らないものは受け容れない。解ったら信じるが、解らないから信じない。

 これは心の疫病なのです。

 自分はこう信じている、そうあるべきであると考える、ということが人として大切なのです。自分のちっぽけな智慧では理解できないことであったとしても、そんなものには振り回されない。私は仏菩薩の智慧を信じている。それこそが自分で自分を信じることのできる大安心に通じるのであり、周りの他人から大事にされる秘訣です。

 

法華経の信心で 充実した人生を

 こんな話を、皆さんとても熱心に聞いてくださいます。一時、塀の中であることを忘れるほどです。

 死んだ後、ご本仏さま、梵天帝釈四大天王、閻魔さまのみ前に参るその時、私たちは、どんな報告ができるでしょうか? その傍らには倶生神さまもおられることでしょう。

 自分のそうした姿を見据えながら、今を生きるのが信仰です。

 辛うございました。足がすくみ泣けてくるほど怖いことがありました。それでもお釈迦さま日蓮大聖人さまの教えを離さず、お題目を唱え、倶生霊神符のお守りを肌身離さずに生き抜きました。そう胸を張って堂々と申し上げる。閻魔さまも憐みつつも誉めてくださる。

 そして、あの不幸も、苦悩も、「ああよくやった」と、微笑をもって思い返し、自分で自分を褒めながら、ゆっくり休める時がくると信じる。倶生神さまは大きく肯かれることでしょう。そう確信して生きるのです。

 そうなるかどうか確かめようがないなど言っても詮無いこと。そうした心の疫病を治す法華経の信心、「心から世界は生まれる」という法華経の大真理に自分を投じて、今を生きる。そこにこそ永遠がある。

 この確信を持って生きることが、真に人生を充実させることになるのです。

-紙上法話

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