孝と申すは高なり。天高けれども、孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつ(厚)けれども、孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいで(出)たり。何に況や佛法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。佛弟子は必ず四恩をし(知)って知恩報恩をほう(報)ずべし。
『開目鈔』
文永9年(1272) 祖寿51歳作 全:p32 定:2巻p544
知恩報恩
四恩とは、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国家の恩の四つをいいます(心地観経という経典には、父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩の四恩が説かれており、日蓮大聖人さまも、こちらを用いられることもあります)。四恩のお蔭を蒙っていないかもしれません。とはいえ、報恩を義務として考え過ぎてしまうと、恩を与えてくれた人の気持ちに添うとは限りません。ですから、自然の情として恩に報いるようになるのが一番です。
人間以外の動物の中でも、成育するまでは親の世話になって大きくなるものが少なくありません。高等な動物ほど、成長の過程で親が子の面倒をみるようです。しかし、育ち上がった時に、親への感謝が見受けられるような動物は、あまりいません。動物に、こうした自然の情が湧いてくることを期待しても無理な相談なのでしょうか。
では、人間はどうでしょう。親を捨てる子、師を蔑ろにする弟子などは、珍しい例ではありません。国家の恩や衆生の恩、そして三宝の恩となると、気にもしたことのない人の方が多いかもしれません。
しかし、人間を動物と同じに見るのも誤りでしょう。親孝行の人、師匠に報いている人、国家や衆生の為に励んでいる人もたくさんいるのですから、要するに、我が事のみを先に考え、知恩報恩を後回しにしている、ということなのだと思われます。その誤りに気付かせて頂けるのが、お題目の信仰です。
「今日蓮が唄ふる所の題目は、先代に異なり、自行化他に亘る南無妙法蓮華経なり」(『三大秘法稟承事』「今月の法話」平成25年4月参照)ですので、お題目の信仰をしていると、自分のためばかりではなく、自然に他者の為になる働きができるようになります。それは、お題目の信仰のお蔭をいただくことによって、精神にも経済にもゆとりを持つことができるようになるからです。
自分のことで汲々としている間は、他を顧みる余裕がないのが自然です。信仰によって、その情けない状態から開放されることこそ、知恩報恩の道なのです。