五品の初、二、三品には佛正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧に又堪えざれば信を以て慧に代ふ、信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり。
『四信五品鈔』
建治3年。祖寿56歳。全:p411 定:2巻p1295
信を以て慧に代ふ(以信代慧)
信を以て慧に代う。信を慧の代わりにする。このことばは、智慧を以て覚り成仏することが仏教の本来のあり方であるけれども、その機根(能力)の無い者は仕方がないので信心を智慧の代わりにする、という意味であると解釈されて来ました。そうではありません。
日蓮大聖人さまが仰っておられるのは、人智の限界を超えることです。人の智慧では人智を超えることは当然できませんから、信を以て慧に代えることによって、神秘という救いの扉を開くのです。
一闡提は成仏の縁を持たないとされた人です。梵語のイッチャンティカの音訳語で、真理を信じようとしない快楽主義者や現世主義者のことを指しました。宗教的な信仰を軽笑する徒輩のことであり、無智の者ではなく、思想的に歪な者のことです。謗法は、正法を誹謗する者であり、智はあるけれども邪智である者のことです。つまり、一闡提も謗法も智慧はあるのに、成仏から最も遠い人のことなのです。
ですから、不信が一闡提や謗法の因になるとは、不信が私たちを成仏から遠ざけるということなのですが、これはつまり、智慧の有無は成仏に影響しない、ということになります。
慧に堪えられない無智の者を救うために、信を慧の代わりにするのではなく、人間の智能の限りを尽くしても不可能であるので、信に依って神秘(如来秘密神通之力)の救いを得られるようにするのです。
仏教はもともと智慧と修道によって覚り(成仏)の境地を得る教えでした。これを慧解脱と言いますが、慧解脱は自力の成仏であり、仏の救いを必要としません。
仏陀の悲願は、成仏得道する自力を持つ人たちのみならず、自分の力で苦から脱することのできない私たち凡夫をどのように救うかにあります。
教主釈尊の仏陀としての人格は、一切衆生を吾が子と見る大慈大悲に依って現れます。社会全体を成仏せしめんとする仏陀釈尊の悲願の救いを具体化するには、その大慈大悲を信ずる、信解脱の道以外にはないのです。
慧解脱の方法によっては、釈尊以降、何人も解脱することはできませんでした。信に依って開かれる神秘の門から入れば、誰もが救いを得られ、その上で、真実の智慧が自ずから開眼され、有解にして有信の成仏に至ります。だからこそ日蓮大聖人さまは「信は慧の因」と仰っておられるのです。
五品や名字即などの語釈は今は措きましょう。南無妙法蓮華経の信によって、寿量ご本仏さまの神秘の救済の門に入ること、これが肝心要です。信の一字を詮と為す。