今月の法話 令和5年の法話

今月の法話(令和5年7月)


()三度(さんど)のかうみやう(高名)あり。

『撰時鈔』建治元年。聖祖54歳。(133頁)

三度(さんど)高名(こうみょう)


 「余に三度のかうみやう(高名)あり、一つには去し文応元年太歳庚申七月十六日に、立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向つて云く、禅宗と念佛宗とを失ひ給べしと申させ給へ、此事を御用ひなきならば、此一門より事をこりて佗国にせめられさせ給ふべし。二には去し文永八年九月十二日申の時に、平左衛門尉に向つて云く、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失ふは日本国の柱撞を倒すなり、只今に自界反逆難とてどうしうち(同士打)して、佗国侵逼難とて、此の国の人人他国に打ち殺さるるのみならず、多くいけどり(生捕)にせらるべし。(中略)第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、(中略)大蒙古を調伏せん事、眞言師には仰せ付けらるべからず。若大事を眞言師調伏するならば、いよいよいそいで(急)此国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問て云く、いつごろ(何頃)よ(寄)せ候べき。予言く、經文にはいつ(何時)とはみへ候はねども、天の御気色いかりすくなからず、きう(急)に見へて候、よも今年はすごし候はじと語りたりき。此の三つの大事は、日蓮が申したるにはあらず、只偏に釈迦如來の御神(みたましい)我身に入りかわせ給ひけるにや、我が身ながらも悦び身にあまる、法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。」

 日蓮大聖人は三度に亘って国家を諌暁されました。三度の高名とは、この国諫のことを指します。一度目は文応元年(1260)七月十六日、鎌倉幕府の最高実力者であった前執権最明寺入道時頼に対し、宿屋入道を通じて『立正安国論』を奏申されたことです。宗教政策を改めて、法華一乗に帰さなければ、薬師経七難のうち未興の自界叛逆・他国侵逼の二難も免れがたいと警告されたことはご存じの通りです。

二度目は、文永八年(1271)九月十二日、龍口法難の際、大聖人を捕らえにきた平左衛門尉頼綱に対する諌暁です。この時、大聖人は頼綱に向かって、「私は日本国の柱である。私を殺めることは日本の柱を倒すことになるのだぞ」と仰り、同士討ちや他国の兵による殺戮などが必ず起こると予言されました。

 三度目は、文永十一年四月八日、佐渡流罪を赦免され鎌倉へお戻りになった際、頼綱と対面された時の諌暁です。念仏・禅に加え、特に真言宗が災いの元であり、蒙古退散の祈祷を真言師にさせるならば、いよいよ国が滅ぶと諌められました。「蒙古はいつ攻め寄せてくるか」との頼綱の問いに、大聖人は「年内」とお答えになりました。

これらの日蓮大聖人の予言は、文永九年二月の二月騒動(北条時輔の乱)、文永十一年十月の文永の役、弘安四年(1281)五月から閏七月にかけての弘安の役という二度に亘る元寇として、現実のものとなりました。

 三度の高名は、大聖人の国家諌暁のことである、とだけ説明されがちですが、それだけでは高名ではありません。すなわち、国家を救わんとして諌暁され、その内容が現実となったことを以て、大聖人は「高名」と仰っておられるのです。

「外典に云はく、未萌をしるを聖人という。内典に云はく、三世を知るを聖人という。」であり、「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。」です。釈尊の御魂を承継し、釈尊になり代わってなされた諌言であり、外典に通じ、宗教の枠をも超越した「神」であり「聖」であるが故に、高名なのです。 これが法華経の事の一念三千です。

-今月の法話, 令和5年の法話

error: Content is protected !!

Copyright© 日蓮宗霊断師会-公式サイト , 2024 All Rights Reserved.