我並びに我弟子諸難ありとも、疑ふ心なくわ自然に佛界にいたるべし。天の加護なき事を疑わざれ、現世の安穏ならざる事をなけ(歎)かざれ。我弟子に朝夕教へしかども疑ををこして皆すてけん。つたなき(拙)者のならひは、約束せし事をまことの時は忘るゝなるべし。
『開目鈔』文永9年2月。聖祖51歳。(69頁) 定:巻1 P604
約束せし事
「私と私の弟子たちは、たとえさまざまな難をうけることがあっても、疑いのこころさえ無ければ、おのずから成仏することができる。仏天の加護があらわれないからといって、ご加護がないのでないかなどと疑問をもってはならない。いまの人生が安穏にならないからといって嘆いてはならない。我が門下のものたちに、いつもこのことを教えてきたけれども、難にあうと、疑いのこころを起こして皆信心を捨ててしまった。愚かな者は、約束したことを本当に大切な時に忘れてしまうからダメなのだ。」
『開目鈔』は、龍口法難で、あわや斬首されそうになり、佐渡に流された翌年、日蓮大聖人さまが著された「人開顕」の書です。
我が身に良からぬことが起こると、信心深い人ほど、かえって動揺してしまうものです。こんなに信心をしているのに。だから良いことが起こり、悪いことは起こらないはずなのに。
そして、疑いのこころが湧いて来ます。本当にこの信仰は正しいのだろうか。もしかしたら、この教えが間違っているのではないか。
その疑いの心こそ禁物です。
総てをお題目に任せ、その信仰を貫いてこそ、安穏ならざる我が身にも必ず仏天の加護が現れ、「自然に仏界に至る」ことが叶うのに、拙き者は、つい疑念を起こして約束を破ってしまう、と大聖人さまは歎いておられるのです。
「約束せし事」とは何でしょうか。
「一生、大聖人さまに付いて行きます」と大聖人さまに約束したのでしょうか。そういう人もいたことでしょう。しかし、それだけではありません。
これは、ご本仏との約束です。そして、自分自身との約束です。
南無妙法蓮華経の道を、持ち、行い、護り、弘める。その誓いこそが「約束せし事」です。団長上人にする約束ではありません。ご本仏(=妙法蓮華経)との約束です。本当の自分(=妙法蓮華経)との約束なのです。
忘れてはなりません。