今月の法話 令和3年の法話

今月の法話(令和3年11月)


日蓮(にちれん)慈悲昿大(じひこうだい)ならば、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)万年(まんねん)外未来(ほかみらい)までもながる(流布)べし。

 

『報恩鈔』建治2年7月。聖祖55歳(173頁)

日蓮(にちれん)慈悲昿大(じひこうだい)ならば


「日蓮が慈悲昿大ならば」と大聖人は仰います。もし私の慈悲が広大であるならば。

もちろん、大聖人の慈悲が昿大でない筈はありません。ので、お題目は永遠に流布する筈デアル。

と、私たちは、そのようにだけこのお言葉を受け止めれば可いのでしょうか。

日蓮大聖人であれば「日蓮が慈悲昿大なれば」と仰られてもよいようにも思われます。「私の慈悲は昿大であるから、南無妙法蓮華経は永遠に流布する」。この方が、大聖人らしいようにも感ぜられます。

大聖人が、御自身の慈悲心の大いさに疑問を感じておられたとは思えません。

大聖人は、何故、「ならば」と仰ったのでしょうか。

逆から考えてみましょう。お題目が永遠には流布しないとするならば。

お題目が、この娑婆世界から消え去ってしまうことがあるならば、それは何故でしょう。この聖文の論理をそのまま用いるとするならば、それは「日蓮が慈悲」が「昿大」でなかったから、ということになります。
そんな筈はありません。門下の者であるならば、「大聖人様、申し訣ございません。末代の弟子たる私たちが至らぬばかりに、大聖人様の大慈大悲にも拘わらず、お題目の教えを衰退させてしまいました」と申し上げることでしょう。
もうお解り頂けたものと思います。

大聖人は、私たちに後を託され、私たちを鼓舞されておられるのです。

万が一、お題目の教えが風前の灯火となり、消えそうになってしまったならば、私たちは、大聖人に、門下の至らなさについての懺悔の奉告を申し上げることでしょう。そして、私たちの心の大聖人は、決して私たちを責めたりされることなく、「いないな、私の慈悲が足りなかったのだ」と仰ることでしょう。

もちろん、私たちの為すべきは、こんな妄想に(うつつ)を抜かしていることではありません。一人でも多くの人にお題目を伝え、「日蓮が慈悲昿大」なる証を立てること、です。

お題目が永遠に流布するかどうかは、私たち一人ひとりに懸かっているのです。

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