今月の法話 令和3年の法話

今月の法話(令和3年12月)


末法(まっぽう)には無戒(むかい)(もの)供養(くよう)すること(ほとけ)(ごと)くすべし。

 

『教機時国鈔』弘安2年2月。聖祖41歳。(296頁)

供養(くよう)すること(ほとけ)(ごと)


諸経の説くところによれば、釈尊御入滅の後、一千年の間は出家道が維持されます(正法の時代)。佛滅後一千年を過ぎると、出家道は次第に崩れ、持戒の者が少なく、破戒の者が多くなります(像法の時代)。二千年を過ぎると、出家の形は残りますが、内実は在家と変わらなくなります(末法の時代)。上聖文の「無戒」とは、末法時代の出家のことを言っています。佛教教理に通じていない人は、出家はたいそう立派で、在家は劣っているかのごとくに思っているかもしれませんが、そうではありません。

インドの古い習慣では、生涯を、修学・家居・出家の三期に分けていたと言います。出家とはすなわち隠居であり、世務の外に出て修道を楽しむ立場です。老境に入って、家督を子女に譲り、人生の真理を探究するのは興味深く、学ぶべき風習であるかもしれません。しかし、人生そのものの実態は在家にあるのであり、出家にはありません。在家とは、世務に従事する社会人のことであり、出家はその反対だからです。

出家とは、言うなれば、真理を探究する修学期に逆戻りすることなのであって、世務を離れた立場です。故に、修道に打ち込むためには、在家の保護を受けなければなりません。政治、経済、産業、芸術、娯楽等々の世務があってこそ、始めて社会は成立します。衣食住の総ては、在家によって維持されているのです。出家はその恩恵を蒙って、自己の好むところに精進できるのです。在家が貴くない筈はありません。

佛教において、出家を貴ぶのは、「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊」し(『南條兵衛七郎殿御書』)、という論理によります。出家によって相続される佛法が貴いからこそ、それを維持する者を貴ぶということです。

現代(末法)の日本の僧侶は、世務の中にあり、出家ではありませんが、釈尊と大聖人の御意志に順う時、応供(おうぐ)(供養を受けるに相応しい者。佛の十号の一つ)の一分となるのです。もし、形のみ出家をして佛法に(やぶさ)かな者があれば、それはまさに食わせ者であり、佛法を利用して名聞利養を求める食法餓鬼に他なりません。末法にはそれが多いのです。

大乗は、在家菩薩をもって、成佛の要道とします。釈尊出世の本懐は法華経であり、法華経の詳名を妙法蓮華教菩薩法佛所護念経と言います。全人類をして、世務の中に佛法の真理を実践せしむること、すなわち、無戒の成佛が釈尊の本懐を承けた日蓮佛教の眼目です。

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