◆聖徒の信仰生活は、寿量ご本仏の救護を仰ぐ安心立命の生活である。
◆常日頃からお題目の信心に徹して、倶生霊神符を着帯し、至心に息災招福を祈れば、宿業も能く転じて現世安穏の利生を授けていただけることは疑いない。
◆しかし、まだその体験をもたず、信心が固まっていないと、教えられた通りに信心したつもりでいても、災難に見舞われたり、心願も叶わなかったりして、疑いの心が起きて迷ってしまうものである。
◆お題目の功徳は広大無辺であるけれども、信心があやふやであるうちは、霊験奇蹟を動かす力は現れない。難しいのは此処である。霊験奇蹟を体験しなければ信はなかなか固まらず、信が固まらなければ霊験奇蹟は現れにくいのである。
◆苦を避けようとすると、かえって苦の嵩が増して来る。日蓮門下たるもの、覚悟を定めて苦を恐れず、前向きに苦を受け取る気概を持たねばならない。
◆楽もまた同様である。強いて楽を求めようとすると、かえって幸運は逃げて行く。
◆日蓮大聖人さまは『四條金吾殿御返事』に「ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合せて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。」と教示されておられる。
◆苦楽を超越して、敢えて避けず、強いて希わず。これは信心の功徳とは別の悟りであるが、この境地を開くことこそ肝要である。
◆大聖人さまは、大難四箇度小難数知れずのご生涯を送られたが、むしろ難に遭われることこそ、ご自身が法華経の行者であることの証左であるという境地に立たれた。
◆伴侶と杯を交わし、南無妙法蓮華経と唱え、万事を倶生神のご加護に任せて、悠々と生活を楽しむ。これ以上の幸福な人生があるであろうか。
◆信心からその悟りに入るか、その悟りの内に信心を固めるか。
◆この境地をひらくことが、幸福になれるかどうかの別れ目なのである。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞