首導月訓 令和3年の月訓

首導月訓(令和3年7月)

◆社会は相互の協力によって成り立っている。全ての職業は自分の生計を立てる手段であると同時に、他者の生活の役に立つ方途になっているのである。

◆自分が生きて行くことができるのは、この社会の相互協力のお蔭であることを本当に理解することができるならば、私たちの生き方は自ずから変わってくる筈である。しかし、この自明な事実を、多くの人は身に沁みて感じてはいない。

◆私たちは聖者である。控えめに言っても、聖者になることができる。自分以外の誰かのために何事かをしたことのない者はいないであろう。その時、私たちは聖者である。

◆そうであるならば、その精神で異体同心できれば、世の中に聖者の空気が漲ってくる。

◆自分のしたこと程度では聖者とは言えないと謙遜することはない。天然自然の釈尊、生まれながらの孔子はいない。皆、聖者の一年生から始めて、遂には大聖者になられたのである。

◆要は発心である。そのようでありたいと願い、そのようであることを誓い、神仏の悲願を自身のものとして相続するのである。

◆最初から、申し分のない行いができる者などはいない。自分が聖者であることを忘れ、あるいは、そのことに気付かず、道を行うことを難しく考え過ぎて来たのがいけないのである。

◆それを高尚なものとして教えすぎて来たことも一因である。子供には子供の被る帽子があり、初心者には初心者向きの道具がある。聖徒団の信仰は、誰でもが聖者となる道である。

日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞

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