◆法華経方便品に二つの生命観が説かれている。「諸法は本よりこのかた常に自ら寂滅の相なり」と、「是の法住は法位にして世間の相常住なり」とである。
◆前者は、あらゆるものは死滅することを本来の相とする事実を如実に認識するものである。一方、後者は、あらゆるものは法則に従って常に補充せられていて、世間の相は常住不滅であるとするのであるが、これもまた事実をありのままに表現するものである。
◆何某という個の人は、生れて来て、一定の時間生きて、死して消えて行く。しかし社会の相を見れば、毎日多くの人が亡くなって火葬場で荼毘にふされるのと同時に、産院では新しいあまたの命が生まれている。
◆個々の生命を一人ひとりに見れば、皆な滅びて仕舞うが、社会を組織する共同の生命体を纏めて見てみると、新陳代謝が繰り返されて、滅びるということはないのである。
◆親なる生命体が、子なる新生命体に生存のバトンを渡して消えて行く行為を繰り返しつつ、無限の過去から永遠の未来に向って、生命を伝えている。
◆個人は要するに大きな生命体の一部であり、常に全体の生命に継がって存在している。にもかかわらず生命を個人の所有の如く錯覚するから、人間の欲望と生命の現実とに喰い違いが起って来るのである。
◆素より生命は宇宙の実存の相であり、互いに交流して維持されるように出来ている。例えば肉体を構成し維持する条件は、自然界から食物を摂収し、空気を呼吸することに依って成り立っている。この事実は、個人の生命はそのまま大自然の所産であることを物語るのである。
◆自分だけの生命というものはない。大きな生命体を分け合っていると見るのが至当である。不生不滅の大生命体に、自分の生命の根があることに気が付けば、その人の人生は根本から変わるであろう。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞