首導月訓 令和6年の月訓

首導月訓(令和6年3月)

◆死なない人間はいない。誰でも承知していることである。しかし、死に支度をしている人はほとんどいない。この頃は「終活」などということばもあるが、肝腎なことは置いてけぼりであることが多い。

◆日蓮大聖人さまは「先づ臨終の事を習ふて後に佗事を習ふべし」(『妙法尼御前御返事』)と仰った。死を考えない人生観は砂上の楼閣である。ではいかにして「臨終の事を習ふ」のか。

◆死んだ人の姿を見れば、生前の姿はすっかり失われて、土気色をした遺骸があるのみである。外側から死を知見すれば、それが有り体の姿であるけれども、どうにも、それで結構ですとは言い難いものを感じてしまうのが人情である。荼毘に付し、墓に納める。あの人は何処へ行ったのだろうか。自分もやがてはそこに行くのである。

◆死後の在り方は生前の生き方によって決まる。そのことを理解するのが、「臨終の事を習ふ」ということである。生きている間は肉体を使って生命の営みをしている。だから、その人の姿が見えている。見えている時に、いつ誰に見られても大丈夫な姿でいる心掛けを持つこと。そして、その心掛けを実行すること。それが出来れば、生前も死後も共に安らかになることができる。

◆現世安穏の祈りのみがお題目の信仰ではない。同時に後生善処の祈りが必要である。「生きてをはしき時は生の佛、今は死の佛。生死ともに佛なり」(『上野殿後家尼御前御返事』)。顕相に現れるのと、密相に隠れるの相違はあれど、ともに不滅の生命の働きの二面である。即身成佛の大事はここにある。

日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞

-首導月訓, 令和6年の月訓

error: Content is protected !!

Copyright© 日蓮宗霊断師会-公式サイト , 2024 All Rights Reserved.