首導月訓 令和5年の月訓

首導月訓(令和5年9月)


◆人間が此の世に在る以上、物理と生理と心理の「理」に依存する。その「理」の取り扱い方には道があって、三つの「理」を本とする原則を破るわけには行かない。

◆私たちの肉体の製作者である自然は、肉体の使用者である私たちに、道を選ぶ自由を許しているが、理に反く自由は許していないのである。

◆性に関する営みは、あらゆる宗教の悩みのタネとなって来たところであるが、性は、生理と心理に促されて営まれる、自然の要求する生命恆存の手段であるから、極めて神聖かつ重大な意味を有つのである。もしそれが修道上の穢れとなり妨げとなるとするならば、直ちに自然をして穢れとし、道の妨げとするに等しいことになる。

◆道は、物理と生理と心理の調和の上にあるものである。すべての宗教は道を世に伝える方法であるが、道は理を用いる方法であって、理を離れた道はなく、道を離れた教もまたない。

◆教の以前に道があり、道の以前に理がある。然らば自然の理に反く道はないから、道ならざる教もない。

◆仏教には、不淫という出家に性行為を禁ずる戒があった。邪婬を戒めるという道は成り立つが、不婬戒は生理と心理の調和を乱さざるを得ないものであるから、実は道として成り立たない。

◆大聖仏陀である釈尊が、この非道非理に気付かれなかったはずはない。恐らくは、釈尊滅後に仏法を伝承した弟子たちが、出家道を偏重し、在家道を軽視する考え方をして、特殊な修道希望者にだけ適用する戒律を、宇宙の真理のごとく過大評価したのであろう。

◆日蓮大聖人は「男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩悩即菩提、生死即涅槃と云ふなり」と喝破せられた。男女交会は、本来的に如来秘密神通之力の表現であり、性の営みという生理・心理の和合は、南無妙法蓮華経そのものを本義とされることを教えられ、真の全き大乗菩薩道の道を示されたのである。

日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞

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