紙上法話

信仰と信心の違い

信心とは心の中の寿量ご本仏さまに祈ること


私が霊断師になりたての頃、師父が盛運祈願会の法話で、聖徒のみなさまに「信仰ではダメだ。信心でなければいけない」と力説していましたが、私は勉強不足でしたので、よく理解できませんでした。

 

汝早(なんじはや)信仰(しんこう)寸心(すんしん)(あらた)めて、(すみやか)実乗(じつじょう)一善(いちぜん)()せよ。(しか)らば(すなわ)三界(さんがい)皆仏国(みなぶっこく)なり」立正安国論

 

平成10年日蓮宗霊断師会山梨県支部各聖の推薦により、第17期新日蓮教学研究室に入る機会を得ることができました。そこで創祖行道院日煌聖人の立正安国論の講義録を勉強させていただき、師父が話していた信心と信仰の違いがわかり、感動したことを思い出します。

 

信仰という場合には「仏を仰ぐ、神を仰ぐとかいう自分以上のものに向かって敬いの念をもってすること」が信仰であり、現存するすべての宗教はまさにそうです。
信心という場合には「自分自身の心の中におられる寿量ご本仏さまに対して祈る」という意味になるわけです。

 

慈悲心をもって異体同心総和の人格となることが一善であり、信仰をやめて信心に入れば、この現実の世界が仏国であることに気付くのです。

 

この世界は穢土(えど)であり、極楽とは死後の世界であるという教えがありますが、全くの間違いで日蓮大聖人さまが命がけでご教示された浄仏国土は、この娑婆世界であります。

 

仏さまの振る舞いでこの世を浄仏国土に

仏身と現ずることは常住不滅の命を表す、安楽な生活を表す、自主自由を表す、清浄平安な楽土を表す。これが全人類の願うところであり、これによって文化が発展していったのです。

 

我々が両親等にしつけを受け、学校教育により教養を身につけ、人間性を磨き社会人としてそれぞれ与えられた職業に従事し、世の中のために役立つことが仏さまの振る舞いです。汚泥の中に真如の仏さまがあり、それは我々人間のことです。

 

只今(ただいま)一念無明(いちねんむみょう)の迷心は(みが)かざる(かがみ)なり。(これ)を磨かば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)明鏡(めいきょう)と成るべし。深く信心を(おこ)して日夜朝暮(にちやちょうぼ)に又(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、(これ)をみがくとは云ふなり」一生成仏鈔

 

現在の風潮は、宗教離れ、寺離れということになっていますが、大なり小なり悩みのない人はいないと思います。

 

私も霊断師となって40年となりますが、その間多くの相談者の病気、家族間の問題など人事百般の悩みに直面し、霊断法の指導並びに倶生霊神のご守護により、運命を好転できるよう努力してきましたが、それによって、多くの霊験奇跡の世界を体信することができました。

 

困ったときの神頼みであり、祈りは現世利益であります。それを否定するのは、本当の宗教ではありません。お題目の道に入る第一歩は欲願であり、決して恥じるものではありません。

 

そして、本当に心よりのお題目を信唱受持することによりご加護をいただき、必ず問題解決の光明に照らされます。その心境になった時、自分自身がご本仏の分身散体であることを悟るのです。

 

また聖徒は、自分だけの狭い信心ではなく、総和の人となって全人類の究竟(くぎょう)目的たる浄仏国土を現実の世界に顕現する聖徒とならなければなりません。

それぞれの与えられた立場において、南無妙法蓮華経の道を弘めてこそ、満足と歓喜に包まれた生活が行われるのではないでしょうか。さらなるお題目の精進をお祈り申し上げます。

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