首導月訓 令和5年の月訓

首導月訓(令和5年6月)


◆自分とは何ぞや、とは人間にとって最大の課題であるが、容易に判りそうでなかなか難しい問題である。何故なら、一人の人間の中には、言うなれば、個人我と社会我とがあるからである。

◆人間の社会性は、時間と空間に跨った広大な生命の中に約束せられているもので、その中から個人我だけを抽出するわけには行かない。われわれの肉体は過去無限の祖先の遺伝であって、大袈裟に言えば、宇宙大の社会性が個人に濃縮されて出来上っているのである。

◆一人の人間には必ず二人の両親がある。これを、過去に遡って計算すると、個人に収まっている遺伝が途方もないものであることが判る。自分を基点にして両親は二人。父母にも両親があるから、祖父母は四人。その四人にまた二人づつの両親があるから、曾父母は八人いるはずである。

◆かくのごとくして遡って行くと、十代前は一千二十四人、二十代前は一百四万八千五百七十六人、二十七代にして一億三千四百二十一万人余ということになる。一世代を三十年とすると、二十七代は八百十年であるから、日蓮大聖人さまの頃である。

◆鎌倉時代の人口は八百万人程度と推計されているので、もちろん、右のようなことはあり得ない。逆に言えば、現代に生きている私たちは、鎌倉時代まで遡れば、必ずや血縁関係を有しているであろう、ということである。

◆われわれを造り出している遺伝は、広汎な社会性に根を置いており、要するに単一の生命というものはあり得ないのであって、どの個も相互に関連し合った社会的な生命を根柢にしているのである。

◆肉体を異にするから当然、個人我を持った個人の集合が社会である。けれどもそれは和融出来ない異質のものの対立ではなく、渾然和融出来る同質の別立の集合である。われわれは「総和」となるべくして生まれて来ていることに気付くべきである。

日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞

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