◆仏教に五濁悪世という思想がある。悪世に於ける五種類の濁乱・厄災である。五濁とは、劫濁、見濁、煩惱濁、衆生濁、寿命濁を言う。
◆劫濁とは、時代の濁りであり、見濁以下の四濁の起こる時代であることを意味する。戦争、疫病、飢饉などが日常化する、時代的・社会的な乱れである。見濁とは、思想の乱れ。誤った思想・見解が蔓延し、邪な考え方が横行すること。煩悩濁とは、貪・瞋・癡・慢・疑の煩悩が盛んになること。衆生濁とは衆生の果報が衰弱し、身体は弱まり、心は鈍くなり、苦しみが多くなること。人間の資質が低下すること。寿命濁とは、人の寿命が次第に短くなること。
◆「諸仏は五濁の悪世に出でたまふ。所謂劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁なり」と方便品にある。悪世というと、末法を連想するかもしれないが、五濁悪世と末法は似て非なるものであり、末法であるから悪世なのではない。「諸仏は五濁悪世に出でたまふ」のであるから、正法の時代、釋尊の在世のときですら、この世は五濁悪世であったのである。
◆世の中がだんだんに悪化して行くという下降史観は、何時の時代、何処の地域にも見られる。しかし、人類の文化が進歩・発展して来たと見る方が、どう考えても素直であり、私たちの実感にも即するであろう。
◆実は、末法とは、仏教の教化力の衰退を言う。仏教を受容しない時代、宗教を受け付けない感性が蔓延することが末法である。科学文明の発達、経済力・生産力の増大、教育・文化程度の高揚は、言うまでもなく進歩であり、発展ではあるが、同時に人間の驕りを生み出す。つまり、人間を超えたものへの畏れを忘却せしむる。これが末法である。
◆不可思議を思議す可からざることとと認めず、非科学のレッテルを貼って得心してはならない。しかし、それは「鰯の頭」への信心を是とすることでもない。神秘と文明のクロスこそが、南無妙法蓮華経の信仰である。
日蓮宗聖徒団首導 髙佐日瑞